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【3】
リビングのソファで一夜を過ごした悠太郎は、まだベッドでぐっすりと眠っている大雅を起こさないように彼のための朝食を準備し、バスルームにタオルや着替えをセットして部屋を出たのは、まだ街も静かな装いをみせる六時前のことだった。
多くの人が行きかう昼間とは違う少しひんやりとした爽やかな空気を、こんな雑多な街でも味わえることを知ったのは、警備員になって早番を経験するようになってからだ。
そもそも、悠太郎と大雅が住んでいたのは郊外の自然豊かな住宅街だった。今では考えられないような木登りや川遊び、土手に寝転んで夜まで爆睡したこともあった。子供に対して擁護ばかりの親が増えるなか、二人の両親は子供のやりたいことを好きなだけさせた。だが、人様に迷惑をかけること、相手を傷付けること、警察の世話になることだけはかなり厳しく躾けられた。
そして、自立した時に困らないようにと家事全般を日常生活の中で叩き込まれたのだ。特に大雅の家ではかなり厳しくしていたと聞いていたが、今の大雅は忙しさにかまけて家の掃除どころか自炊することも少ない。
高級タワーマンションの上階に住む彼の部屋は時々、何かの事件が起きたのではないか? と思うほど荒れ、週に一度依頼しているハウスキーパーも手が付けられずに呆れるいうのだから相当なものだ。
今や生活能力の欠片もない大雅を心配するが故に、悠太郎は休日には必ず彼の部屋を訪れて掃除や洗濯をこなしていた。
恋は盲目――とはよく言ったもので、悠太郎は嫌な顔一つせずに黙々と片付ける。それを嬉しそうに見つめる大雅の視線を感じることも、つまらないお喋りで邪魔されることも、突然後ろから抱きつかれて「お腹空いた!」と言われることも、すべてが幸福へと繋がっていた。
綺麗に片付いた部屋でじゃれ合いながら広いベッドで眠ることが最高のご褒美。
窓から見える夜景、早朝の靄のかかったビル群。「ありがとな」と握手をした大雅の手が離れた瞬間、恋人同士のような一夜の夢から覚める朝の冷たい空気――。
爽やかで清々しいものではあるが、少しだけもの哀しさを感じる朝の静けさは、大雅と一緒にいる時間が長ければ長いほど冷ややかに感じるのだった。
そんな憂いを払拭するかのように、ジーンズとパーカーという実にシンプルな服装で大きめのスクエアリュックを背負い、最寄りの駅に向かって歩き始めた時だった。
「――ん?」
すれ違う人もまばらな歩道で足を止め、後ろを振り返る。
誰かに見られているような感覚を感じていたのは、実は今が初めてではない。ここ数日、通勤・帰宅途中に誰かの視線を感じて、首筋の後ろのあたりにムズ痒さを覚えていた。
あたりを見回してみるが、悠太郎を見ているような怪しげな人物は見当たらない。
「気のせいかな……」
そう呟きながら歩き出し、数歩進んだところで再び足を止めた。
悠太郎は昨日、警備所の前で制止した不審者の男の事を思い出した。顔はハッキリとは思い出せないが、細身のクセに予想以上に力が強かった。それに、悠太郎が有段者であるにもかかわらず、技を繰り出させないようにする術を心得ていた。
それ故に、彼を制圧することが出来ずに北原に助けを求めた次第だ。
着目すべきはそんなことではない。揉み合いになっている最中、悠太郎の耳元で囁いた男の言葉……。
「――いつも見てるからっ! ハァハァ……」
耳朶にかかった生温かい息の感触を思い出し、ぶるりと身を震わせる。
揉み合った末に息があがったのとは違う、興奮にも似たあの息遣い……。
社員スタッフが出勤する朝の一流企業のエントランス。興奮材料になるものは何もない。
しかし、その男がスーツや制服フェチといった特殊な性癖を持っていれば話は別だ。それにしても、なぜ悠太郎だったのか?
受付カウンターに常駐するスタッフや、体にフィットしたスーツやワンピース姿の女性社員ならば分からない気がしないでもない。だが、その男は入口の自動ドアを入って来るなり迷うことなく悠太郎に向かってきた。
「――まさか、ゲイ?」
男が男を好きになる。悠太郎自身もそれは否定しない――というか出来ない。
現にずっと想い焦がれている相手は男なのだから……。
それに、身近なところでは上司である北原も悠太郎と同じセクシャル・マイノリティ―だ。
悠太郎は今まで、男性にアプローチされたことは一度もない。逆に、少し幼い顔立ちが女性に受け、大学時代の合コンでは何度も遊びに誘われたが『友達以上』になることはなかった。
たった一度だけ彼女が出来たことがあったが、二回目のセック|スをした後で「別れましょう」とあっさり別れを切り出され、それっきり彼女とは会っていない。
自分の何がダメだったのか未だに解決できていない謎ではあったが、とりあえずは童貞を捨てることだけは出来た。
その時はもう心の奥底に大雅を思う気持ちがあり、今に思えば、彼女の事を真剣に考えられる余裕はなかったのだろう。それがセ|ックスという形で現れた――そんな気がしていた。
それ以来、女性とは付き合っていない。もちろん男性とも……。
一途に大雅だけを想い続けている悠太郎に、想いを寄せる『男』がいるなんて、まったく予想もつかない。
だが、その男は間違いなく悠太郎にアプローチしてきた。
「嘘だろ……」
信じられない思いでそう呟いた時、ポケットの中でスマートフォンが振動した。
ビクッと肩を震わせてポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出すと液晶画面には見知らぬ番号が表示されていた。
「誰……」
訝りながら受話ボタンをタップし耳に押し当てた瞬間、悠太郎の顔が一気に青ざめた。
『ハァハァ……。おはよう、悠ちゃん』
忘れたくても忘れようのない息遣いと、なぜか自分の名を気安く呼ぶ男の声。
「――誰?」
『いつも見てるって言ったでしょ? ねえ……昨夜は誰と一緒だったの? 彼氏?』
「え……な、何を言ってるんですか?」
『付き合ってるの? ねぇ……あの男とセッ|クスした?』
電話の向こう側で下卑た笑いを漏らす男の声がだんだんと掠れていく。時々、吐息のようなものが混じるのは悠太郎をオカズに朝から自慰に励んでいるようだ。
『――ねぇ、教えてよ……。どんな声出すの? あの男はどんな体位が好き?』
「ちょ、ちょっと! マジで何を言ってるか分からないんですけど! あなた……誰なんですか?」
『ハァ……ハァ……。名前、言ったら……会ってくれる?――きっと可愛い声で啼くんだろうなぁ。あの男もイク時は声を出すの? ねぇ……』
背筋に冷たいものが流れるのを感じて、悠太郎はゴクリと唾を呑み込んだ。スマートフォンを持つ手が微かに震えている。
武道を極めた悠太郎ではあるが、こうして精神に直接訴えてくるような攻撃にはとことん弱い。
じわじわと自分の内部を侵略されそうで、底知れぬ恐怖を感じすにはいられない。そしていつか、この男の言葉に洗脳され、操られるがままに体を開いてしまいそうな自分がいる。
スマートフォンを耳から離したい。でも、それが出来ずにいるのは恐怖で固まってしまった自身の弱さのせいだ。
『――俺の精◯、飲ませたいよ。いっぱい出すからね……。そのリュックにもかけてあげようか?』
「ひぃっ!」
悠太郎は目を見開いて、恐る恐る周囲を見渡した。
(どこかで見てる……?)
『クスッ。可愛いね……。あの男に出されたモノ、綺麗に掻き出してあげたいなぁ。そして、俺の精◯をたっぷりと注ぎ込んであげる。妊娠しちゃうかもね……ハァハァ』
グッと込み上げてくるモノを必死に抑えこみ、悠太郎は唇を震わせて言った。
「あなたは……昨日の、ひと……ですか?」
電話の向こうで嬉しそうな笑い声が響き、トーンを抑えた声が悠太郎の鼓膜を震わせた。
『そうだよ……。悠ちゃんのこと見てたら、我慢出来なくなっちゃった。見かけによらず意外と力、強いんだね? 警備員だから当たり前か……。今度はガチムチのオカマに邪魔されないように会いに行くね』
「え……っ」
社員や関係者しか入ることが許されないUプロテクトのロビー。そこで起きたことをここまで知っているということは、間違いなくあの男なのだろう。
一度ならず二度目があるような男の物言いに悠太郎は戦慄した。緊張で渇ききった唇を湿らすことも忘れ、きつく閉じたまま短い呼吸を繰り返していた時だった。
それまでの何かを楽しむような軽い口調から打って変わり、男の声が更に低く掠れ真剣味を増した。
『――それまでに、あの男と別れて。そうじゃないと……何をするか分からないよ?』
ゾクゾク――ッ。
悠太郎は全身に鳥肌が立ち、血の気が引いていくのを感じた。頭の中が真っ白になり、何も考えられない。
ただ、男の言葉だけが何度も繰り返される。
「――何を、する……つもりですか?」
『秘密……。言っちゃったら面白くないでしょ?』
この男ならどんなことでもやりかねない。悠太郎の中で危険を知らせる警報が鳴り響く。
これ以上深入りするのは危ない。でも――放っておけば大雅を巻きこみ、危険に晒すことになる。
男は悠太郎と大雅が『付き合っている』という前提で話をしているようだ。それを完全否定し、大雅は関係ないというアピールをしなければ、この先どうなるか予想できない。
悠太郎はすうっと息を深く吸い込んでから、腹筋に力を込めて息を吐き出すように固く閉じたままの唇を開いた。
「あの人とは付き合っていません。セッ|クスもしていません……。あの人は無関係です!」
『――じゃあ、どうして部屋に入れたの?』
男は悠太郎を試すかのように意地悪げな含み笑いを漏らしながら問うた。一瞬、返答に困った悠太郎だったが、ここで怯んでは元の木阿弥だと腹を括った。
「ただの……知り合いです。そういう関係は一切、ありません」
きっぱりと言い切った悠太郎は細く息を吐き出した。男を騙すための嘘だとしても、しばらくは大雅と会うことは避けなければならない。悠太郎の事をいつどこで彼が見ているかも分からない状況で、あえて危険に晒すような真似はしたくない。
会えないのはツライし悲しい。何より、こんな男に屈していいる自分が悔しいし、腹立たしい。
でも、大雅を守るためには仕方のないことで、悠太郎自身が我慢すれば済むことなのだ。
互いに信頼できる幼馴染という関係は壊れることはない。
ただ――悠太郎の恋心が永遠に陽の目を見ないまま封印される可能性は大いにある。
大雅の身の安全を守るために冒すリスクは大きく、悠太郎にとって過酷で残酷な日々が約束されたも同然だった。
『あの男とは会わない――そう約束して』
たとえ悠太郎が大雅を避けたとしても、同じ社内にいる以上何らかの会話はなされる。それまで許されないとなると、大雅の悠太郎への不信感は一気に増幅するだろう。せめて、仕事上での会話ぐらいは許可を貰わないと業務上支障をきたす。
悠太郎は慌てて付け加えるように男に言った。
「でもっ! 職場が一緒なんです……」
『――じゃあ、仕事で必要なこと以外は話さないで。約束出来る?』
有無を言わせない迫力の声で悠太郎を追い詰める男。悠太郎は小さく頷きながら「はい……」と答えるしか出来なかった。
『俺は小坂……。この番号はちゃんと登録しておいて。拒否ったら承知しないからね』
「――はい」
『じゃあ、お仕事頑張ってね! 悠ちゃん……』
そう言って一方的に通話を終わらせた小坂に、悠太郎は手にしたスマートフォンを力なく下ろしながら、それまで詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
歩道の真ん中でぼんやりと立ち尽くす悠太郎を、時間が経つにつれ増え始めた通行人が好奇の目を向ける。
その視線さえも気にならないくらい、悠太郎の心は重く沈んでいた。
ひんやりとした風が高度を上げ始めた太陽に照らされ熱を孕み始める。生温い風が悠太郎の頬を撫でるようにそよぎ、まるで小坂に撫でられているような錯覚を覚え身震いする。
新聞やテレビで連日報道されているストーカー事件。
まさか悠太郎自身がそのターゲットになることなど、誰が想像できただろう。
大雅はもちろん、悠太郎自身も予期できなかった展開に、頭がうまく働いてくれない。
「――これからどうしよう」
重苦しいため息とともに、つい漏れてしまった本音。
上司である北原に相談しようかとも思ったが、いつどういう経路で大雅の耳に入るかも分からない。そうなると、ただでさえ贔屓目で見ている悠太郎の一大事となれば血気盛んな大雅は黙っていないだろう。
小坂を呼び出し、ボコボコに殴りつけ傷害事件に発展する可能性はある。そんなつまらないことで大雅が逮捕されたとなれば、Uプロダクトの信用問題にも発展する。多くの取引先を持つ一流企業、企業トップの不祥事は会社にとって致命傷にもなりかねない。
その原因を作ったのが幼馴染である悠太郎であると知れれば、彼の両親との関係も危ういものになる。
「これって……最悪な展開しか見えないじゃん」
悠太郎の呟きは通り過ぎる車のエンジン音にかき消されていく。
当初乗るはずだった電車を何本も見送り、早番勤務の時間にも間に合うか分からない。
それでも、悠太郎はその場から動くことが出来なかった。
どこかで見られているという恐怖もあったが、何より大雅との関係がこのまま終わってしまいそうな悪い予感に体が強張ってしまう。
大雅が好き――でも、この想いを口にしたらすべて終わる。
悠太郎は手にしたままのスマートフォンをギュッと握りしめ、気を抜いたら溢れてしまいそうな涙をグッと歯を食いしばって耐えた。
「大雅……俺、どうすれば……いい?」
その声は悠太郎のベッドで安らかな寝息を立てているであろう最愛の男には届かない。
大切な人を守る――それは、物凄く大変でツライことなんだと知る。
生半可な気持ちで大雅を守ると誓ったわけじゃない。
でも――。
悠太郎の足元からその自信が少しずつ崩れていく音が聞こえ始めていた。
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