【4】

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【4】

 悠太郎はその日、業務に集中することが出来なかった。  社員スタッフ出勤前のビル内点検も、地下駐車場に常駐する誘導警備員からの指示も、北原との打ち合わせも……。ただ通り過ぎていくだけの風景のように感じられ、まったく頭に入って来ない。  その様子に即座に気付いた北原に「何があったの?」と追及されたが、悠太郎はただ首を横に振る事しか出来なかった。  そんな悠太郎を更に追い詰めるかのように、携帯番号を介して送られる小坂からのメール。  悠太郎の行動をまるですぐそばで見ているかのような文面に、周囲をキョロキョロと見回しては重いため息を繰り返す。  良く考えてみればUプロテクトの社内に部外者である小坂がいるはずがないのだ。  さも近くにいるかのようなメッセージに怯え、それを安易に鵜呑みにしてしまうほど悠太郎の余裕は完全に失われていた。  昨日の騒動で監視カメラの映像は大雅のもとに送られている。小坂という名前は知らないにしろ、彼の顔は大雅も目にしているはずだ。  しかし、警備員である悠太郎がその男に付き纏われ「別れろ」と脅されているなんて思ってもいないだろう。  そんな状況で、大雅に相談を持ちかけるのは彼の不安を煽るだけだし、何より顔を合わせれば小坂との約束を破ることになる。  なぜ、あの時「はい」と了承してしまったのだろう。 「――どうかしてる」  今になって自分を責めたところで過去には戻れない。  帰宅しても小坂からの執拗なメールは続いた。  悠太郎のシフトでは珍しく週末にもらえた貴重な土日の休日。本来であれば業務を終え、そのまま大雅の住むタワーマンションへと向かい、散らかった部屋を片付けながら、溜まった洗濯物を分別しながら洗濯機の中に放り投げている頃だ。  そして、彼の帰宅を待ちながら夕食を準備して……。  悠太郎にとって、そんな細やかな幸せさえも叶わない週末が訪れる。たった一人でタチの悪いストーカーと闘い、その度に神経をすり減らして落ち込む。静まり返ったリビングにいるだけで気が狂いそうだ。  リビングの中央に置かれたテーブルの上でスマートフォンが振動している。  鈍い光を放つ液晶画面に表示された名前に悠太郎は息を呑んだ。 「大雅……」  手を伸ばしかけて、小坂の言葉を思い出して動きを止める。  勘のいい大雅の事だ。たとえ『嘘』を並べたところで、その違和感は完全には拭えない。  長年付き合っているからこそ気付くこともある。悠太郎の言動には特に敏感で、吐いた嘘はすぐにバレてしまう。  だが、嘘を吐いたことを責めることはしない。その嘘を吐くにあたり、どんな理由があったかを真正面から聞いてくる。絶対に目を逸らすことなく、悠太郎の真偽を見抜くかのように野性的なこげ茶色の瞳が妖しく光る。  幼い頃はそれが正直怖かった。でも、大雅は悠太郎を怖がらせているわけではなく、嘘を吐いたことがいけない事だと気づかせてくれる。叱られることが怖くて両親にも言い出せなかった悪戯。それを責めることなく、一緒に頭を下げて謝ってくれた大雅。  今、彼の目を真っ直ぐに見ることが出来るだろうか……。  長い間振動していたスマートフォンの動きが止まり、再び静寂が訪れた。  もう少ししたら、再び震え出すであろうスマートフォンに躊躇していた手を伸ばし、悠太郎はリダイヤル発信した。 「――もしもし」 『悠……? 電話に出ないから心配した』 「あ、ごめん……。洗い物してたから気付かなかった。もう、仕事終わったの?」 当たり障りのない会話。そう思っていたのは悠太郎だけだった。 『悠……。お前、何かあった?』 「え? 何かって?」  トクン……と心臓が大きく跳ねる。やっぱり大雅には嘘はつけない。  それでも悠太郎は出来るだけ平静を装った。 『何か変だ……。声の感じとか……元気ない』 「そうかな……。ちょっと疲れてるのかもね」  普段なら次々に言葉が溢れて止まらなくなる電話での会話だが、やはり無意識に言葉を選ぶことで黙ることが多くなってしまう。 (これじゃ、バレバレだよな……)  つくづく嘘が下手で不器用だと自分でも呆れる。そんな自分を自嘲するかのように唇を少しだけ歪めた。  いつも通りに話したい。そして――笑いたい。  気が付けば悠太郎の頬に涙が一筋流れていた。 『――悠? お前、何か隠してないか?』  大雅の低い声がやや鋭くなり、訝るような余韻を含む。 「何でもないよ……。大丈夫だって! ホント、大雅ってば心配症……なんだか……らぁ」  嗚咽を無理矢理抑え込んでいるせいか声が震える。  もしも泣いていることに気付かれたら、大雅に無駄な心配をかけることになる。自分で蒔いた種で大雅を危険に晒したくない。 『おいっ! 悠……っ! どうして泣いてる? 何があったか言ってくれ!』 「何でもないって……言ってるだろ! 大雅には関係ない……」 『今、自分のマンションか? これからすぐに行くからっ』  取り乱す大雅の切羽詰まった声が鼓膜を震わす。その瞬間、なぜか悠太郎は自身の頭の中がスーッと冷めていくのを感じた。 涙は止まらない。それなのに冷静な自分がいる。 「――来なくていいよ。今は……会いたくない」  無意識のうちに口から発せられた言葉は抑揚なく、冷酷で容赦なく突き放すようなものだった。 『悠……』 「しばらく会わない。大雅も忙しいみたいだし、俺も……疲れてるから」 『なんだよ、それ……。悠、お前……おかしいぞ? 俺に言えない事でもあるのか?』  急にトーンダウンした大雅の声に、より一層涙が溢れた。  手の甲で何度も拭ってみるが、それはただ手を濡らすばかりで途切れることがない。 (このまま終わっちゃうのかもしれない……)  一瞬よぎった不吉な考えに悠太郎の手が震えた。  俯いて顔を歪め、唇を噛みしめる。  いっそ、このまま終わりにした方がいいのかもしれない――。  悪魔の囁きか、神の啓示か。  そもそも男が男を好きになるなんて間違ってる。自然の摂理を捻じ曲げた想いに罰が当たったのだ。  長い長い片想いだった。忘れようとしても絶対に無理なことは悠太郎自身でも分かっている。  それでも、いつかは終止符を打たなければならない時が来る――大雅の幸せを願うなら。  遅かれ早かれ訪れる決断の時。それが、たまたま早まっただけだ。  悠太郎は喉の奥から洩れる嗚咽を堪えながら重い唇を開いた。 「――それ、幼馴染だからって言わなきゃいけないの? 俺だって大雅に言えないことあるよ。誰だって秘密の一つや二つあるだろう? 言いたくない事だってあるんだよっ」  秘密にしていること――心の奥底にしまい込んだ恋心。 ずっとずっと言えないでいること――『好きだ』っていうたった一言。 口に出したら一瞬で壊れてしまう『幼馴染』という関係。その繋がりは時に最強であり、時に脆く儚い。 長い沈黙が続いた。それに耐えきれなくなったのは大雅の方だった。 『――お前の言う通りかもしれないな。俺だってお前に言えないことあるし……。大人気なかったな。ごめん……空気読めなくて』  いつになく覇気のない大雅の声に、悠太郎は史上最高とも言える後悔に圧し潰されそうになっていた。 (言うんじゃなかった。でも――いつかこうなる日が来る予感はしてた) 「分かってくれればいいよ……。じゃあ、電話切るよ……?」 『ちょ、ちょっと待って! お前が迷惑だと感じているならプライベートで『会いたい』とは言わない。でも――メールだけは送らせてくれ。返事は……いらないからっ』 「何を送ってくるつもり?」 『――お前と繋がっていないと……不安になる。俺……自分が思っているよりお前に依存してるって、たった今……気付いた』 「それって気付くの遅くない?――もう、どうしようもないけど」  大雅の言う『依存』とは――。  絶妙なタイミングで部屋を訪れて、掃除、洗濯をこなし食事を作ってくれる家政婦的な存在?  それとも、酔っぱらった時に遠慮なくなだれ込める、すべてが完備された通勤便利なこのマンション?  悠太郎と離れることで間違いなく大雅は不利になるだろう。  それでも、このマンションに近づけさせるわけにはいかない。 『――好きな人、出来た?』  唐突に切り込んだ質問を口にした大雅に、悠太郎は鼻水を啜りながら応えた。 「それ、大雅に言わなきゃいけない?」  やっぱり気付いてはいなかった。悠太郎の想いは大雅には届いていない。  その程度の想いで、自己満足するだけの『恋人ごっこ』のような真似を何年してきたのだろう。そういえば、彼に対して具体的にそういうニュアンスを匂わしたことは一度もない。  その逆は数えきれないほどあった。大雅の悠太郎に対するアクションはいちいち期待させるものばかりだった。 『もしかして?』も毎回となると真偽の確かめようがなくなる。  大雑把な性格の大雅に限って、下心ありきであざとく攻めているとは思えない。 『――ごめん。やっぱり、俺……最低だな』  社内でスタッフに見せるドSでオレ様な顔はすっかりナリを潜めている。  電話の向こうにいるのは、悠太郎が良く知るいつもと変わらない大雅だった。  優しくて頼もしくて……時々、酷く臆病になる。  それでも悠太郎の中では絶対的なヒーローなのだ。 「――じゃあ、切るね。おやすみ」  通話が長くなればなるほど心が軋んでいく。そのことに気付いた悠太郎は一方的に通話を終わらせた。  手にしたスマートフォンを力なくソファに転がした悠太郎は、そのままそばにあったクッションを抱え込むと、声をあげて泣いた。  それまでよく我慢出来ていたなと思うほど、腹の底に溜まっていた大雅に対する想いをすべて吐き出すかのように泣き続けた。  何度も謝り、何度も自分を責めた。  それでも、大雅との関係はもとには戻らない。 「大雅……うぅ……っ。俺……何一つ守れない……。大好きなお前も、自分の想いも……約束も……っ」  いじめっ子によく言われていた言葉――それを思い出し、あながち間違っていなかったのだと気づく。 『お前は大雅がいなきゃ生きていけない臆病者だ!』  大見得切って『大雅を守る』なんて、おこがましいにもほどがある。  本当は守って欲しいから、大義名分を利用してそばにいる。  悠太郎自身こそが大雅に『依存』しているのだから彼を一方的に責めることは間違っている。  泣いても彼には届かない。「助けて」と叫んでも、今となっては来ることのないヒーロー。 「大雅……好きぃ。大好き……だった」  悠太郎のスマートフォンにメールの着信を知らせるランプが光る。  涙で濡れた指先で画面をタップすると、そこには大雅からのメッセージが届いていた。 『お前を泣かせた奴、絶対に許さない……って、俺か。おやすみ……』  誤解が誤解を生み、更にこじれていく。  悠太郎はスマートフォンを胸に抱きしめると、唇を震わせながら何度も呟いた。 「大雅は悪くない……。悪くないんだ……よぉ。俺のせい……全部、俺のせい……」  悠太郎は平穏だった日常を壊した小坂を恨み、そしてその状況を打破できない現状を恨み、何よりこの世に生を受けた自分を恨んだ。  大雅と出逢わなければ……とは決して言わない。出逢えたからこそ今がある。  これが恋の試練というヤツならば、どれだけ苦しめば幸せに導いてくれる?  そのとき手にする幸せは、一生かかっても使い切れないほど大きなものにして欲しい。 「神様……お願い。俺はもう何も望まない。でも、たった一つだけ……。俺に……大雅を守る勇気と……強さをください」  大雅と繋がっている唯一のアイテムであるスマートフォンに願いを掛けるように、ギュッときつく胸に押し当ててそう呟く。  都合のいい神頼みだと分かっていても、今の悠太郎に出来ることはそれしかなかった。
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