始まり

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始まり

 天高く広がる空には、いわし雲が並んでいる。ガソリンスタンドのキャノピーからはみ出した空は、腹立たしいほどの秋晴れだ。そのくせ、涼しさとは真逆の残暑が肌を焼いてくる。  地方都市によくある小規模なガソリンスタンドは、色あせた看板に小さく有限会社()()石油と書いてあった。  ()(ぐち)(ふた)()がここで働き始めて八ヶ月。やっと短時間の留守をこなせるようになった。社長とは名ばかりの事業主は二葉の母の弟、つまりは叔父で、名を()()(しゆん)()という。今は灯油の配達に出ていて不在だ。 二葉は事務所のスツールにだらしなく腰かけると、携帯端末を操作した。無料が売りのトークアプリに赤い通知が点滅している。中身が高校の同窓グループだと確認すると、そのまま何も返すことなくアプリを閉じた。  卒業して一年半、久しぶりに集まろうという連絡は、二葉の気持ちを深く沈ませた。最も、二十数人ほどが登録しているグループで頻繁にトークをやり取りするのはせいぜい五、六人だ。二葉が返信を怠ったところで誰も気にも留めない。そして、二葉個人へ誘いの連絡をしてくる友人なんかいないのだ。  あまりの暇さで調子にのった二葉は、最近お気に入りのアプリを開こうと、ホーム画面を横に数回スワイプした。ハートが二つ絡まるアイコンは、味気ない書体でSOKUKOI(ソクコイ)とある。速恋、即恋、俗にいう出会い系アプリだ。掲示板を開き、新着の投稿メッセージを順に開いていく。  【U駅周辺で二一時頃。詳細はDMで】  【二〇代痩せマッチョ。今夜本番OKな子募集】  【写真交換可能な人で。飲み友だちから気軽に始めてくれる人】  恋なんて名前を付けたところで、ほとんどが夜のお相手探しだ。それでも、投稿の下部にはツリーがぶら下がり、軽いやり取りが続いていく。 「いきなりヤルとかさすがにキツイよなぁ……飲み友だちからとか、そんな感じ……」  とは言っても、二葉はまだ十九歳で飲酒年齢にも達していない。それでも、脳内では返信のシミュレーションがされていく。  相手の歳もわからない最初のうちは丁寧なほうがいいだろう。  【二十歳です。写真送りますね。どうですか?】  カメラを起動し、内カメラに切り替える。鏡になったディスプレイに映る顔が、不機嫌に睨んでいた。喜多石油でバイトを始めて、やっと美容室にも行った。セルフカラーを染め直した髪は赤みのかかった綺麗なライトブラウンで、まとまりにくい猫っ毛が額を隠している。  無理やり笑いかけた顔は、我ながら不気味だった。 「前髪上げたほうが大人っぽくなるよな……」  バイトだからとろくにセットもしていない。ましてや仕事用のTシャツはオイルでまだらな模様が染みついている。写真を撮るなら家に帰ってそれなりに整えてからだ。そんなことを思ったところで、実行なんかしないことも織り込み済みだ。 「想像してるだけなら別に悪くないし……」  出会い系イコール危険という図式を無理やり持ち出して、自分に言い訳をする。ふたたび新着投稿リストに戻ると、すでに目当ての投稿は削除されていた。メッセージを送る勇気もないくせに、なぜかがっかりしてしまうのもいつものことだ。  自分が同性相手にしか欲情しないと気づいたのは、中学の保健体育でコンドームの使い方を教えられたときだった。男女別の授業で、男性教師が模型のペニスにコンドームを被せてみせた。  照れ隠しからかぎゃーぎゃー騒ぎ立てるクラスメイトたちの中で、二葉は必死に平静さを保とうと努力した。男性教師の手がゴムを伸ばしていく動作に、教師自身の下半身を想像した。途端に熱が下腹部へと急降下したのだ。  別にその男性教師が好みだったわけでもない。それが、裸の女が載った雑誌や、インターネットのエロサイトで勃起するクラスメイトと同じ仕組みだと気づいたとき、二葉は自分がまともじゃないのだと理解した。  アプリのバナーには、際どい下着姿のモデルが使われている。鍛えられて綺麗に割れた腹筋から、陰毛が見えるんじゃないかというくらいまで面積を小さくした下着に隠れたそこを想像するだけで、ドキドキと心臓が騒ぐ。下腹部に熱が集まりかけたことに焦って、二葉はトップページからまた掲示板へと画面を切り替えた。 「どうせ痩せ型は人気ないしな……」  見ているだけの掲示板でも、希望されるのは圧倒的に筋肉質なタイプが多い。二葉はというと、一人暮らしの不摂生もあって、お世辞にも男らしいとはいえない体格だ。  【複数プレイに興味ある人いる?】 「マジかよ……」  顔をしかめたところで、連なった二台の車が入ってきた。せっかくの自由時間を邪魔しやがって。理不尽な怒りを舌打ちに込め、誘導のために駆け出した。  先頭の白いスポーツカーが、二葉が立つ給油スペースを通り過ぎ、ピットの前で停車した。後続の軽自動車も、給油の意思がないとばかりに離れたスペースに停まる。二葉はまた舌打ちをした。 派手なスポーツカーは車の種類に疎い二葉でさえも持ち主を覚えている。運転席のドアからは長い脚が地面に伸ばされ、その脚に見合った長身が降り立った。鮮やかな蛍光グリーンのジャンパーはゴシック文字でPコープとプリントされ、少し下ろされたジッパーの奥に白いシャツとネクタイが覗いている。綺麗に手入れされた黒髪は、左側で軽く分けられ、その奥の目が二葉を捉えた。案の定の顔見知りに、内心で罵詈雑言を吐きかけた。 「いらっしゃいませ……」  渋々口を開いて近くに寄る。切れ長の黒目が二葉を映し、さも不愉快だというように細められた。 「俊二さんは?」 「前田商店まで配達」 「いつ戻る?」 「さぁ……」  多分もう戻るだろうと思ったものの、そう言ってしまえば待つと返されそうで、咄嗟に言葉を濁した。 「子どもの留守番じゃないんだから、帰社時間の目安くらい確認しておけよ。そんな風だからまともに就職もできないんだ」 「俊兄に用があるなら先に連絡してくればいいだろ」 「俺以外のお客さんにもそう言うつもりか?」  言うわけないだろう。その反論を飲み込んで二葉は黙った。 「本当、どうしようもないな。(かず)()のほうはきちんとしてるのに」  市役所勤めの兄を引き合いに出されて、あからさまに顔を歪めた。 「(しよう)()さん! 店から電話です。帰りに一軒集金に回って欲しいって」  軽自動車の窓が開いて、将吾と揃いのジャンパーが声を張り上げた。振り返った将吾が分かったと明るく返事をする。二葉に対する声とは明らかに違うトーンにげんなりとした。  Pコープというスーパーマーケットチェーンを経営する(ささ)(やま)商事は、将吾の父親が現社長を務め、一人息子の将吾はその立ち居振る舞いも含めて、誰もが認める跡取りだ。二葉の兄である一樹とは高校の同級生で、進学もせず就職も決まらずにいた二葉を、あからさまに見下している。 「ピットの作業終わったら入れ替えて」  仕方なく無言で頷いた二葉に、将吾は嫌味な溜息を吐いてみせる。 「オイル交換。俊二さんが戻ったら頼んでおいて」  言葉の後ろには、おまえはやるなよという念押しが見え隠れしていて、それも二葉を苛つかせる。信用なんか一ミリたりとも存在しないことが分かっていても腹立たしいのだ。  そもそも、二葉と将吾に直接の接点があったことなんか一度もない。二葉が自堕落で不真面目で使えない人間だったとしても、ここまで目の敵にされる(いわ)れはないのだ。  分かったよ。吐き捨てるようにな了承に、またもや眉を(ひそ)めて将吾は背を向けた。社用車の軽自動車は、助手席に将吾を乗せるとすぐに走り去っていった。 「相変わらずムカつくヤツだな……俺がなにしたっていうんだよ」  苛立ちを言葉にしてから、仕方なくピットの車に乗り込んだ。タイヤ交換で預かったこのトラックは、配達に行く前の俊二が作業を済ませていた。持ち主への連絡も済んでいて、もうすぐ引き取りに来るからとピットに置いたままにしていたのだ。  恐る恐るエンジンをかけて、ゆっくりアクセルを踏み込む。歩いたほうが早い速度でピットを抜けると、なんとか壁際に幅寄せを終えた。十八歳になってすぐ免許は取ったものの、収入もない二葉が車を買えるはずもなく、ほとんど運転したことがないのだ。 エンジンを切ったところでホッと息を吐きだして、将吾のスポーツカーへと向かう。埋まりそうな低い位置の運転席に収まった瞬間、血の気が引いた。  きっとわざとだ。作業を俊二に頼むのなら、車の移動を二葉に指示する必要なんかなかった。おまえは触るなと言えば良かったものを、ピットの車と入れ替えろなんて指示したのは間違いなく嫌がらせだ。二葉が運転に不慣れなことを承知のうえで、運転してみろと嘲笑ったわけだ。  シートを前いっぱいに寄せてクラッチを踏み込む。ギアを入れてしばらく、二葉は一速に入れたギアをまたニュートラルに戻した。  今の時代、(こう)()()くらいしか選ばないだろうマニュアルミッションの車は、スポーツカーなら珍しくもない。それでも、繁忙期の自動車学校でなんとか教官の目こぼしを受けて免許を取りかねた二葉には、動かせる気がしなかった。 俊二を待とうかと思ったものの、将吾の車は微妙に邪魔な位置に停められている。それさえも計算してやったんじゃないかと、八つ当たり気味に呪いの言葉を吐いてしまう。  どうしたものかと迷っている二葉が、バックミラーを動く影に気づいたときには、古い軽トラックが給油スペースに停まっていた。慌てて降りようとするよりも早く、軽トラックの運転手が軽やかに降り立った。開いたドアには(かじ)(たに)建設㈱と書かれている。  また顔見知りだ。二葉は立て続けの不幸にまた舌打ちをした。 「将吾? あ? 違ったか」  必要以上によく通る声は、二葉の頭に騒音となって響く。大柄な身体を九十度に曲げて運転席をのぞき込む男に、仕方なくドアを開けた。 「俊二は?」 「配達」 (かじ)(たに)(えい)は俊二の同級生のはずだが、中年太りの始まった俊二に比べて格段に引き締まった肉体が、その年齢をずっと若くに見せている。しかも、ワックスで軽く立たせた髪は淡いほどの金髪で、焼けた肌も相まってまったく年齢に見合わない。残暑にもかかわらず長袖を着ているのは、現場仕事のためだ。 「将吾のヤツ、相変わらず綺麗にしてるな」  英の視線は太陽を反射するボンネットに向けられ、次いで何をしてるんだと二葉を見た。 「オイル交換」  それなら動かすのだろうからと車から一歩離れた英が、動こうとしない二葉を不思議に見つめた。 「移動するんじゃないのか?」 「する」  だったらどうして動かさないのだと、無邪気なまでにきょとんとした顔が腹立たしい。 「運転できないのか?」 「できる。免許あるし」  だったらどうしてやらないのだと、英は言わなかった。その気遣いがまた嫌味に思えてしまう。出来ないのかと馬鹿にでもすればいいのに。 「動かしてやるよ」  促されるがままに運転席を代われば、将吾の車はいとも簡単にピットに収まった。ご丁寧に位置まで合わせて、英が降りてくる。ありがとうございますの言葉は、喉の奥で引っかかって出てこなかった。 「限定免許か?」 「違う」 「だったらちょっと練習すりゃすぐ乗れるさ」 「今どき使わないだろ」 「今役に立ったじゃねぇか」  うるさいな。いちいち絡むなよ。心の中で毒づいて、会話を勝手に切り上げた。 「俊二はどこまで行った?」 「前田商店」 「ヤスのとこか。じゃあ、もう戻るな」  道路を見た英が、またピットのスポーツカーを見て小さく笑った。 「まぁた足回り換えたのか。将吾は丁寧に手ぇ入れるよなぁ」  二葉にはそれが以前とどう違うのかなんて、聞いたところで分からない。息をするように車を乗り回すことも、細かな変化に感心する様子も、ただ二葉を苛立たせる。 「スポーツカーなんか今どき流行らないし」 「流行り廃りじゃないだろ。好きで乗ってるんだから」  二葉は英を見ることはしない。目の前の空気に向かって愚痴を吐く。呆れたような溜息が二葉へと降り注いだ。英がジッとこっちを見ている。その気配に、二葉は必至で平静さを装った。 「おまえ、文句ばっかりだな」  呆れたような言い方が悔しい。だけど、そんなことどうでもいいと言わんばかりに背を向けた。 「俊兄のこと待つなら中行けば?」  梶谷建設は掛け売りの客だ。給油を済ませ、事務所に入って伝票を書く。待合のテーブルでタバコを吸う英に、黙って伝票とボールペンを差し出した。 「ん」  小さく返事をして、英がペンを持つ。丸で囲んだ梶谷の文字はお世辞にも綺麗とは言い難い。複写になった一枚を破って、英に渡したところで俊二が帰ってきた。おつかれさん。英が先に手を上げる。 「ただいま。二葉、なにもなかったか?」 「あれ、篠山さんとこの。オイル交換は俊兄に頼むって」 「俺? なんで?」 「知るかよ。俺に触られるの嫌なんだろ」 「将吾のやつ何なんだよ。いいよ、二葉やっておいて」  そう笑った俊二は、すでに視線を英へと向けている。二葉は仕方なくピットへ向かった。  綺麗な車だ。数日前、雨が降ったはずなのに水垢もついていない。顔が映るほどのボディも、キラキラ光るアルミホイールも、ふんだんに金をかけていることくらい二葉でも分かる。  事務所では向かい合わせに座った男が二人、なにが可笑しいのか背を反らして笑っている。 「ま、こっちに絡まれるよりずっとマシだよな」  いけすかない将吾の車だって、作業する分にはストレスもない。やっと迷わなくなったオイル交換の手順を、ゆっくりと反復しながら勧めていく。  物覚えははっきりいって悪い。人が一度で覚えることでも、二度三度、下手すればそれ以上かかってやっと覚える。覚えたところでやることは遅いし、要領も悪い。特技なんてものも思いつかない。 だから、身内の好意からでも雇ってくれた俊二には感謝していた。幼いころから、要領のいい兄ばかりが持てはやされるなかで、俊二だけは二葉に分け隔てのない言葉をかけてくれた。  作業を終えた手を、タオルで拭っているところに乗用車が入ってきた。立ち上がろうとする俊二を牽制するように走る。  いらっしゃいませ。ゴミはありませんか? ほら、見知らぬ客にならそれなりに明るい声も出せる。三百円のおつりです。ありがとうございました。軽く頭を下げて見送る横に、Pコープの軽自動車が入ってくる。軽自動車は将吾を降ろしてすぐに去っていった。  二葉をちらっと見た将吾は、なにも言わずに事務所へと向かう。その顔はあからさまにうれしそうだ。事務所の二人が手をあげて迎え入れる。将吾が頭を下げてあいさつをした。  遅くなってすみませんと、トラックの持ち主が引きとりにきた。清算をして客を見送る。  空はいつの間にか茜色に染まり始めていた。腕時計が小さく電子音を立てる。十八時。二葉の勤務は八時から十八時、もしくは十時から二〇時のどちらかで、レジや戸締りなどの関係から八割は一八時上がりになっている。 「俺、上がるから」  事務所のドアを半分だけ開けて俊二に声をかけた。三人が一斉に二葉を振り返り、その視線にいたたまれなく目を反らす。 「お疲れさん」  俊二と英が口々にあいさつを返す。仕方なく会釈で応えドアを閉めようとした。 「そうそう。将吾の車、二葉がやってくれたからな。あいつ俺より丁寧なんだぜ」  こともなげな俊二にぎょっとなる。黙って俊二がしたことにすればいいのに。案の定、将吾が眉間の皺を深くした。やりたくてやったんじゃない。その言葉を出さない分別は辛うじて二葉にもあった。  事務所を出て、スタンドの隅に停めておいた折りたたみ自転車にまたがる。途中のコンビニエンスストアで弁当を買う。ひとり暮らしのアパートまでは二〇分ほどだ。六畳のワンルームは驚くほどにものがない。テレビは携帯端末で見るし、電話も引いていない。家具といえば備え付けの小さな冷蔵庫と、小さな座卓、それとちょっと雑誌なんかを収納できるローボードがあるだけだ。  カラスよりは幾分マシな行水でシャワーを済ませ、冷めた弁当をかきこんだ。電子レンジくらいは買おうかと思いながら、数か月が過ぎている。布団に転がって、最近やり始めたゲームアプリを開いた。一時間ほどでライフがなくなりアプリを閉じる。うつ伏せに姿勢を換えると、日課になったSOKUKOIのサーフィンを始めた。  【今から会える人。割り切った関係求む】  【K線沿線で。三〇歳以下の人いる?】  【デブでもいいって人】  新着から数ページをめくったところで、布団に起き上った。端末の内カメラを起動して自分を映す。洗ったせいで昼間以上に柔らかくなった髪を、ぎゅっとかき分けた。 「これだったら二十歳以上に見えるか? あ、シャツとかのほうがいいかな」  立ち上がって、備え付けのクローゼットから選んだデニム地の白いシャツを羽織る。首のボタンは二つ外した。端末に向かって軽く笑って何度かシャッターを切る。あからさまな作り笑いが気持ち悪かった。 「ぶっさいく……」  自己嫌悪と同時に押したシャッターは、いつもの仏頂面を記録して、笑顔よりかは幾分マシに見えた。  【二十歳です。メッセージのやり取りから】  コメントの枠に入力した文字は送信することなく消してしまう。 「だっさ……今どきメル友とか流行らないし」  【会ってくれる人いますか? 優しくしてくれる人で】  そのメッセージも、さっさと消してしまった。 「馬鹿馬鹿しい……優しくとか、出会い系に求めることじゃないし」  画像フォルダに並んだ自分の顔を残らず削除すると、端末を布団に投げた。追いかけるように布団へダイブして、仰向けに天井を睨む。 「会いに行く勇気もないくせに」  自分の声のはずが、それは冷たく二葉の胸に突き刺さった。
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