あるOLのエレジー

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「あるOLのエレジー」yoruhashi 自殺したミドリ先輩は、前日に上司に尻を触られた。   そんなこと、と思うかもしれないが、 婚約者に出て行かれ、傷心に沈む彼女の背中を そのセクハラ行為は確かに押したのだった。 都心へ向かう駅のホーム、けたたましいブレーキ音が耳に残る。 まるで金切り声だ。 ミドリ先輩は私に笑いかけてから、ホームに入ってきた電車に飛び込んだ。   あれから1週間もたつのか。 私は苦いコーヒーカップを置く。 吐息が混じる。   このカフェの窓から見下ろせるスクランブル交差点の景色は、この街のシンボルの一つになっているらしい。 美しい景色ではないけれど。   女の子にわざとぶつかるサラリーマン。 信号が変わるのを待ちながら、空き缶を放る少年。 ギリギリまで車間を詰めて走る車と鳴り響くクラクション、途切れることのない歩きタバコ。 東京。この場所からずっと遠くに住んでいた私が、ずっと憧れていた場所。   スマホをみると不在着信1件。 留守電が入っている。 ここはカフェの店内。少し気が引けたが、スマホを耳に当てた。 「おお、俺だ佐山だ。お前、今日も休みか。体調悪いなら仕方ないが出社できないなら連絡くれよな。お前以外の皆はちゃんと働いてんだから。  …メッセージは以上です。もう一度お聞きになる場合は…」 ごもっとも。 ごもっともです、佐山さん。 だけどね。 ミドリ先輩…、いえ、あなたの元婚約者が自殺したのは先週ですよ。 どうしてそんなに平気なんですか。 あなたの部署の課長が先輩にセクハラしていたこと、ご存知でしたよね。   私は重い腰をあげる。   やっぱり行こう、会社に。 佐山さんたちと顔を合わせるのは億劫だけれど、 クビになって親を心配させるわけにはいかない。   ガシャンとカップの割れる音。 店員がカップを落としてしまったんだろう。 よくある光景だ。 続けて「大変失礼しました」と、客全員に向けた謝罪の言葉が響く。 これもよくある光景。 別にいいのに。 カップを割ることで、誰かに迷惑をかけたわけじゃない。 ……。 前言撤回。 舌打ちが聞こえて見回した店内、客たちはみな不機嫌そう。 大げさに体をねじり店員の方を向いて眉間にしわを寄せている人もいる。 ああでも、これも、よくある光景かもしれない。 外に出ると肌寒い。東京は冬になろうとしている。 寒いのは苦手だ。 なんていうか、心臓が凍りそうになる。心が冷たくなる。 右手に抱えていたコートを羽織り、地下鉄に乗る。 超高齢化社会と呼ばれるこの街は、午前を越えるとご年配の方々の世界になっている。 終点まで続くであろう宴会を催す、おばさま達。 電車内は賑やかだ。   彼女たちの世界はまるで、ミドリ先輩が生きたそれとは別の世界にあるのでは と思う。 楽しそうで、いいなあ。 でもきっとこの人たちも、つらい時代を経て今に至るのだろう。 老後という幸せな時間は、彼らにとってご褒美ということなんだろうか。   でも、いや、だから私たちは働いているのかもしれない。 何十年か先には自分たちも、全てのしがらみから解放されて生きていけると信じているから、いま我慢しているのかもしれない。   ポケットの中で振動。 母からのLINEだ。 当然のマナーモード。さっきのカフェ店員のように、睨み付けられたくないから。 「あんた、こっちにはいつ帰ってくるん?」 「今年のお盆にも戻らなかったから、お父さん心配してるよ。お正月にはきしょうできそうなの?」 おそらく母の打ち間違いだろうが 「きしょうじゃなくて、帰省ね」と訂正しておく。 母はスマホに慣れていない。 いや日本語に、まだ慣れていないのかもしれない。 続けて「私、仕事で忙しいから、分からない」と連ねて送信する。 既読がつく。    正直帰りたい。けれど…。 今の状態で故郷に戻っても、逆にダメになりそうな気がする。 なんていうか心の中のダムが決壊して、空っぽになって、 腑抜けというやつになってしまいそう。   両親の反対を押し切り、強引に「ここ」にやって来たのは私だし、もう少し踏ん張ってみたいな。 本心じゃないけれど。   ブブと再びメッセージ受信。 「お父さんがね、心配してるんよ」 「わかってるけど」とは打ち込まず、ポケットにしまう。 そろそろ電車が来る。 ドンと誰かがぶつかった。 背広姿、20代くらいのサラリーマン。歩きスマホをしていたのだろう。 舌打ち、「邪魔だよ、ブス」と吐き捨て去って行く。 言われた言葉よりも、若めの人に言われたのが辛い。 でも、大丈夫。慣れてるから。 都営地下鉄は、電車を降りてからがけっこうしんどい。 階段は苦手だ。 「まだオバサンでもないのに、こんな階段登るくらいで弱音言ってちゃダメじゃない」 ミドリ先輩の声が記憶のどこかから聞こえる。   弱音か…。 先輩は、きっと誰にも言わなかったし、たぶん言えなかったのだろう。 だって、先輩だったから。   地上に上がると、なにやら騒がしい。 火事だということはすぐに分かった。   乾燥しやすい季節だけれども、近頃やけに多い。 ビルの4階から6階にかけての一帯が燃えている。 吹き出している赤い炎は、黒煙に変わり空を塗りつぶしている。 マンションだ。逃げ遅れている人とか、いないだろうか。 すでに消防車が何台も到着しているから大丈夫だろう、きっと。   火事を見上げていた私はきびすを返す。 そこで初めて、気づく。 全員が、燃え上がるマンションにスマホを向けている。 嫌な気分になる。 みんな嬉々としている。まるで花火を見ているようだ。 その直後、背後で誰かが叫んだ。 振り向くと、燃え上がるフロアのベランダで、人が身を乗り出している。 その人、いやその子は、下に向かって大声で叫んでいる。 消防隊に向かって救助を乞うているのだろうか。 何かを説明しようとしているのだろうか。 飛び降りるから受け止めて欲しいと懇願しているのだろうか。 聞こえない。全然聞こえない。 野次馬どもの嬉叫にかき消され、その子の訴えが全く聞こえない。   「あっ、落ちる、落ちるぞ!」 「ちゃんと撮ってるか、おい」「当たり前だろ」 「やばい、マジやばい瞬間じゃん、これ」 「これ動画あげようぜ、再生数とかすごそう」 「落ちろよ、早く。ガキ」 逃げる。 ここから逃げる、私は 人混みをかき分け、早足でこの場を離れよう。 もう無理だ。 頭がおかしくなりそう。 普通じゃない。普通の神経じゃない。こんな街に住んでいるのか。私は。 たくさんの人にぶつかる。睨まれた、けれど「すみません」なんて言うはずがない。 東京。 「世界一平和な都市」と海外のランキングか何かで選ばれたというニュースを見たことがある。 ふざけんな、どこがだよ。 「先輩…」   「ミドリ先輩」 走りながら、言葉が漏れる。 「この街に来て、右も左も分からない私を、あなたは笑顔で迎えてくれました。失敗ばかりの私を、優しく包み込んでくれました」 「あなたとこの街が、私の新しい居場所だったのに」 「頼ってほしかったのに、何でも話して欲しかったのに」 「私なら、あなたの弱音を全部、受け止められるのに。どうして…」 涙まで溢れている。みっともない。 嗚咽とともに漏れ出す雫たちは、一瞬で乾いた炎の粒となる 燃え広がるベランダで、私は泣いている。 エレベータは止まっていたから、非常階段でここまで登って来るしかなかった。呼吸が早い。やっぱり階段は苦手だな。 さっきの子どもは、もうどこにもいない。 やはり落ちたのだろうか、ここから。 野次馬たちのいる下を除く勇気はない。  熱風が私の髪を焦がす。 火炎が私の肌を溶かす。 熱くはない。死にはしない。 私は、あなた達とは違うから。 炎に包まれながら、私は見上げる。空を。 遠くに見えるスカイツリー。 その隣に、巨大などす黒い球体が横たわる。 その山のような球体の影は広大で、東京の街に夜をつくる。 怪物―。 その怪物に群がるように、自衛隊のヘリが飛んでいる。 そっか。 来ちゃったんだ、お父さん。   球体から現れた二つの目が、眼下をぐるりと見回し、 そして叫ぶ。 私がいるベランダの窓ガラスがはじけ飛ぶ。 自衛隊のヘリがくるくると落ちていく。   空を揺らす父の砲口は、私を呼んでいるようにも ここで暮らす娘を哀れんでいるようにも見える。 いいよお父さん。 ここも、滅ぼしちゃって。   ここは私の、理想の場所じゃなかった。     おわり
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