エストニアで聞いた「決断にエネルギーを持ってかれてるんじゃない?」の話

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エストニアで聞いた「決断にエネルギーを持ってかれてるんじゃない?」の話

 エストニアのレジデンスに滞在していた時、私は次に何をやるべきかに悩んでいた。数年前は海外でアート制作発表できるようになりたいと思っていて、そうなるように目指していた。それがだいたい実現して、いろんな国を訪れるようになってきた。死ぬまでにやっておきたいこと、これがやれなかったら後悔することはなんだっけ。  アトリエ付きの広い部屋で淡々と色を塗った後、草を摘みに行こうと思い立ち、ビニール袋を持って外に出る。教わった野草がおいしくて、毎日摘みに行って毎日食べていた。青空が広がる気持ちのいい日だった。いつも家の中にばかりいるから、たまに外に出るととても新鮮な気持ちになる。ゆるやかな坂を下って通ったことがない道をずっと行くと、草原の中に一本の木があった。私は木の下にあった石の上に座り込んで、遠くまで広がる空を見ていた。  死ぬまでにやれなかったら後悔するんじゃないかと思うことは一つだけある。学生の頃に考えた長編小説を書き切ることだ。いつも書き始めては途中で飽きて投げ出してしまう。頭の中で描くストーリーは最高そうに感じるけど、実際に文章に落としてみると、よく分からないしありがちだしで、自分の文才のなさにウンザリしてしまうのだ。  頭の中で想像してるだけのものは素晴らしく思えるけど、実際にカタチにしてみると大したことはないというのが、私が創作から学んだことだ。 「でもなぁ、完結だけさせたい気もするんだよなぁ。どうせつまらなくても。書き切らなかったことを後悔しそうなんだよなぁ」  そんなことを考えていたら、近所の人が歩いてくるのが見えた。目が合ったので軽く手を振る。 「珍しいね。どこの人?」 「日本です、英語お上手ですね」  エストニア南部のかなり田舎町にいて、英語を話せる大人がほとんどいなかった。白髪の男性は左右に分かれた白いヒゲを揺らして笑う。ほっぺたが赤子のようにふっくらしていた。彼は私のところから一メートルほど離れた地面に腰を下ろす。 「死ぬまでに好きな映画を原語で見たくてね、学んだんだ」 「へえ、外国に行ったこととかは?」 「ぜんぜんないよ。だから、通じてうれしいよ」 「わあー、そうなんですね。すごいなぁ」  学生時代にさんざん英語を勉強したけど、結局できるようにはならなかった。それを思い出すと、勉強するだけでこれだけ話せてる男性はすごい。 「死ぬまでにやりたいことってなんだろうって思ったことがあってね。ほら、僕はもう先が短いだろう、ははは」 「ふふ、死ぬまでにってちょうど今考えてましたよ」 「どんなことを?」 「次は何をしたらいいかなって。長編小説を書き切りたいっていうのはあるんですけど」 「おお、いいね。やったらいいよ」 「でも、今やってることもあるし。ほら、成果を出してる二割のことに集中しろとか言うじゃないですか。今、一番自分が結果を出せてるのってアートなので、八割の時間はアートに使ったほうがいいかなって」 「なるほどね、分かるよ」 「そうなんですけど、今はちょうどアートの仕事が途切れてる時期だから、この時期に小説を書き切ってしまうっていうのもありで。あと数か月後には韓国で発表があるから、それが始まったらあんまり小説書くとかできないかなぁとか」 「ここの生活はのんびりだしね。いいんじゃないか、小説を書き切れば」 「だけど、成果はアートだから、まずはもっとぶっちぎりの結果をアートで出してからのほうがいいかもって思っちゃって…」 「何をやるかで悩んでいるんだね」 「そういうことです。小説を書き切ったところで、売れるわけじゃないだろうし、自己満足にしかならないのは分かってるんですよね」 「死ぬまでにやりたいことではあるんだろう? それにやってみなければ売れるかは分からないじゃないか」 「それが、昔さんざんやったことがあって、コンペに出したんですけど、何にもならなかったんですよね」 「試し方が足りなかったんじゃないか?」 「でも、三百本ですよ?」 「なるほど」  男性は軽く首を左右に動かして空を見上げてから、私に言った。 「なんていうか、あれだね。決断にエネルギーを持っていかれちゃってる感じだね」 「決断って?」 「決めるってけっこうパワーがいるんだよね。これをやるぞ、あれをやるぞって。それは方向を指し示すことだ。キミは決断しきれないせいで、そのエネルギーを何度も使ってしまっているよ。これをやるって決められたら、決断疲れしなくて済む。一か月はこれを優先、みたいな感じで期間を区切ってでも決断してしまったほうがいいよ」  毎日迷っている時間が長くて、アートにも小説にも集中できていないような感じだった。 「決断は間違っているかもしれないけど、決めてしまえば悩んでいる時のエネルギーを決めたことにちゃんと使えるよ」  男性は最後に、がんばりなさいという言葉を残して道の向こうへ歩いて行った。
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