上海のバーで聞いた「自分に力をくれる一つのこと」の話

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上海のバーで聞いた「自分に力をくれる一つのこと」の話

「このレジデンス、私が受かったところだけど、本当に良かったし、ぜひ受けてみるといいよ!」  海外で出会ったアーティストが教えてくれたアーティスト・イン・レジデンスは、私もすでに知っていて、さらに何度か落ちたことがあるやつだった。 「あー、それ知ってるなぁ。落ちたことあるよ」  そうメッセージを返すと、彼女からは「次は受かるよー、何度もトライしてみないと!」と励ましのメッセージが返ってきた。そうだね、ありがとうと返しながら、すでに何度もトライしたやつだなぁと私は考える。  アートに限らず、今うまくいってる人たちだって、きっとたくさん失敗していたはずだ。私はとにかく失敗したくないタイプなので、不合格なたびに落ち込むし、一生懸命書いた文章が誰にも読んでもらえないと、やっぱり落ち込んでいた。落ち込んだことを言い訳に寝込むと、今度は何もしなかった自分にガッカリしてしまう。  友達に誘われて上海のバーに行ったら、音楽ライブをやっている場所で一人だけ日本語で歌ってる人がいた。コーラを頼んで立っていると、人混みに酔ってきたので座れる場所を探す。一緒に来た友達は舞台の近くまで行ってしまって、すでにどこにいるか分からない。  席はどこも空いていないみたいだ、と思ったところで、一人の女性が詰めて座りながら私を隣に呼んでくれた。ウェーブのかかった黒髪で、細くて赤い縁の眼鏡をかけていた。 「すみません、ありがとうございます」 「ああ、中国人じゃないのね」  彼女は私のことを中国人だと思っていたようだ。英語でお礼を言ったら流暢な英語が返ってきた。 「日本人?」 「はい、そうです」  話を聞くと、彼女はこのバーのオーナーのようだった。音楽が好きで、ライブができるバーをつくったら音楽のそばで暮らせるし、若いミュージシャンを応援できるからと言っていた。 「こんな大きいバーのオーナーって…、すごいですね」 「すごくないわよ」  彼女は謙遜したが、親から資産を受け継いだわけでもなく、自分でビジネスを成功させてバーを開いたようだ。利益は他で出ているから、バーで稼ぐ必要はないのだという。 「最初からうまくいったわけじゃないのよ。信じていた人にお金を持ち逃げされて大変な時もあったし。うまくいってる人たちに嫉妬してた時期もあったの」 「そうなんですね。成功されている方の話だけを聞くと、すごいなって思って羨ましいばかりなんですけど」 「抜け出す方法をね、教えてもらったの」 「へええ、どんなですか?」 「それまでの私は、自分がしたいことだけを考えてたのよね。自分が音楽を聴きたいからバーをつくりたい、とか。それはそれでとても力になったんだけど、そこに相手を幸せにするっていう視点を一つ足したの」 「相手を幸せにするかぁ、相手目線ってよく言いますけど、自分にはなかなかできなくて。うまくいかない時ほど思いやりが欠けちゃうかもです」 「もうね、そういう人間って決めちゃうの。自分は相手がうまくいくことを願える人間だって。相手の幸せをいつも考えられる人間だって決めるのね。その中で、自分のやりたいことを絶対妥協しないってこと。だいたいの人はね、そのバランスがちゃんと取れてないのよ」 「バランスかぁ」 「やりたいことをやるって決めれば、継続する力になる。それが同時に誰かの支えにもなるように考えること。ほとんどの人は、自分のやりたいことだけに集中しちゃってるのよね。だから、ちょっと相手のことを考えるだけで、ちゃんとうまくいくようになるわ。  逆にね。他の人のことを考えてばかりの人は、自分のためのことを増やすこと。見極めないといけないのは、バランスが取れてるかどうか。あなたはどう?」  私は両手に持ったコーラの中で溺死したいほど恥ずかしい気持ちで、彼女に打ち明ける。 「私は、はあああああ、自分のことばっかりだなぁ…」 「それがすぐに言えることが一番大事よ。どっちか分かってないほうが大変なんだから。自分のやりたいことが、誰かの支えになってるかっていうのを、ちょっぴりだけ意識してみて。物事はちゃんといい方向にまわっていくから。  それがあなたに必ず力をくれるから。誰かの幸せをつくるって日常的に考えられるようになったら、やりたいことはちゃんと実現していくからね」  バーに人がたくさんいる中で、私が空席を探しているのにいち早く気づいたのは彼女だった。彼女は日常的に、相手に幸せを提供することを考えているのだろう。いや、このバーを愛し、バーに来てくれる人たちに心地よい空間を提供したいということを考えているじゃないだろうか。 「当たり前に身に着くまで、毎日少しずつでも意識して。約束よ」  彼女はそう言って人差し指を立て、ウインクして見せた。
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