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家に閉じこもった少女の言う「未来よりも今日あったことの話がしたい」の話
「先のことを考えると、なんか不安になっちゃうんですよね」
フィンランド北部のマンッタとう町でのアートプログラムに参加していた。九月のマンッタは急に寒くなり、雪が頻繁に降るようになっていた。もともと寒かったけど、こんなに雪が降るのは久しぶりだと美術館のスタッフさんは言っていた。
ある日、レジデンスの主催美術館のディレクターの一人が、自宅にアーティストを招いて夕食会を開いてくれた。アーティストの一人が運転してくれる車で自宅を訪れると、スタッフ以外に初めて見る人たちもたくさん集まっていた。
フィンランドのおうちは、飾り付けがとても多い。暗い冬の多くを自宅で過ごすため、家の中を自分の好きなものであふれさせるのだろうか。小さなオブジェや飾りがいっぱいあって、暮らしが大切にされているのがとても分かる。
夕食の支度を待つ間、私はもらった紅茶を持って、小さい椅子に座る。娘さんを連れている女性に「日本のことを話して欲しい」と話しかけられ、私たちは三人でテーブルを囲む。十二歳だという娘さんは、とても大人びて見えた。そばかすの多い顔に肩まで流れる金髪。おとなしい子で、あまり会話をしたがらない。
「学校に行ってないんですよ。行きたがらなくなっちゃって」
もう二年くらい学校に行ってないという女の子は、うつむいたまま瞬きをする。あまり自分のことを言われたくないのだろう。親子は日本どころかアジアにも行ったことがないので、海外のことを知りたいのだと言った。いつもみたいに折り紙を持ち歩いてなかったので、私は紙とペンをもらって漢字を書くことにした。
「もしよければ、名前を漢字で書きますよ。お名前は?」
「アニタ」
母に促され、娘が小さく口にする。私はスマホで漢字を調べながら「亜二咜」と書く。
「亜はアジア、二はTWO、咜は大きな声で励ます、みたいな意味だよ」
漢字を書いた紙を見せると、娘の表情が変わったのが分かる。複雑な漢字はとても美しく、どこの国でも喜ばれる。漢字が書けてよかったと思う瞬間だ。
「書いてみる?」
娘にペンを向けると、彼女は黙ったまま受け取る。私が書いた字を見ながら、その横に「亜二咜」と書く。ぎこちなく書かれる最初の字は、とても純粋できれいに見える。彼女は上目遣いで確認するように私を見る。
「合ってるよ、すごくきれい」
「よかったわねぇ。私のもお願いできますか」
「もちろん。名前は?」
「エヴァです」
私は少し考えて、母親の名前を「絵羽」と書く。漢字の意味を伝えると、母が嬉しそうな顔をする。
「お母さんの名前も書いてみたら?」
絵という漢字に手こずりながらも、アニタはエヴァの名前も漢字で書いた。母が大げさに喜んでみせ、アニタは照れた気持ちを隠すように口元に力を入れる。微妙な表情の変化から、彼女の喜びが感じられた。
「アーティストさんなんですよね。すごいねぇ、こんなに遠くまで来るなんて」
家に閉じこもっている娘に、なんとか刺激を与えたいのだろう。母は明るく娘に話しかける。
「ぜんぜんそんなすごくなくて、アトリエにずーっと引きこもって、毎日紙を折ってますよ」
「マンッタが終わったら、しばらく日本に戻られるんですか?」
「日本でビザの準備とかをして、次は上海に行く予定です」
「まぁ、上海。すごいわねぇ」
「でもその後はどうなるか分からないです。昔は数年先の生活の予想がついてたのに、最近は数か月先も分からなくなってしまいました」
「アーティストっぽくていいじゃない。いろんな国に行けてうらやましいわ。ねぇ、アニタも日本に行ってみたいと思わない?」
母に話しかけられ、アニタは答えずに漢字が書かれた紙を見る。
「先のことを考えると、なんか不安になっちゃうんですよね。だから、あんまり未来のことは考えないようにしてるかもしれないです、私は。こんな風になりたいっていう理想はあるけど、理想を思い描いていると、現実とのギャップが辛くなっちゃうから」
私がそう言うと、アニタは「未来のことより今日の話がしたい」と小さく言った。その言葉に私がうなずくのとほとんど同時に、彼女は「あなたの名前も書いてみたい」とつぶやいた。
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ここまで読んでいただきありがとうございます!
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