モンゴルの僧院で聞いた「人生が少し止まる時に考えること」の話

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モンゴルの僧院で聞いた「人生が少し止まる時に考えること」の話

 モンゴルのトッフン僧院は山の上にある僧院で、そこまで行くための交通手段は馬しかなかった。一人で馬は乗れないので、私は馬にしがみつきながら、モンゴル人のガイドさんに馬を引っ張ってもらいながら進む。山に雪が降り始めて地面がぬかるみ、馬が滑るたびに大きく揺れて落馬しそうになる。こんなに雪が降るのは久しぶりだとガイドしてくれたモンゴル人の男性は言っていた。  なんとか頂上に着き僧院の中に入ると、部屋はストーブで暖まっていた。修業中の少年みたいなお坊さんがお茶を淹れて出してくれる。ずっとここに寝泊まりしながら修業しているのだと聞いた。私よりも前に少し年のいった感じの白人男性が一人いて、お茶を飲んでいた。黒い毛糸の帽子をかぶった男性は、ダウンジャケットにジーンズとスノーブーツという格好で、少し白っぽくなったヒゲを生やしていて、とても精悍な顔立ちだった。男性はイギリスから来たと言っていた。 「すごい遠くからいらっしゃったんですね」 「うん。ロシアから入ってきたんだけど、このあと中国に行こうと思ってるよ」 「長旅だぁ」  すでに二か月旅をしているという彼は、中国に行った後のことは考えていないと言う。 「先が決まった人生を長く歩んできたから、違うことをしたくなったんだよね」  旅に出る前に母親を亡くし、長く一緒に住んでいた恋人の浮気をきっかけに別れ、急に一人になって人生を考えるようになったと彼は言った。 「家に帰った時に自分しかいない生活を、僕はほとんど味わったことがなかったから。すごく寂しくなってね。毎日仕事にも行ってるんだけど、人生が恐ろしいほど空回りしているような気がしたんだ」  彼は自転車をこぐような仕草をしながら、生きているだけでエネルギーが奪われているような気がした、と言った。 「何がきっかけで旅に?」 「テレビでね、モンゴルのゲルを見たんだ。そういえば、昔、ゲル泊まりしてみたいって思ってたなって。そういうことがすごくたくさん思い出されてさ。あそこに行きたい、あんなことをしてみたい。そういうのを、長く長く箱にしまって閉じ込めてたような気がしたんだ。  俺にはやりたいことがあったはずだ。空回りしているエネルギーをそっちに使ってみたいって思ってね。将来のことを考えて人生設計しつづけてきたけど、自分でつくった設計図を破り捨てて自由になってみたくなった」  彼は飲み終わった器を僧侶に返してお礼を言う。私は熱いお茶のカップを両手で抱えて手を温める。 「どうですか、実際にここまで来て。なんか変わったことってありました?」 「一番はね、人生が止まる時間っていうのがとても大事なんだって気づいたよ。これまではずっと働いてたから。目の前の仕事に一生懸命だった。生活もあったし、母の世話も必要だった。自分が支えないとって思っていたよ。でも、自分の人生を考えたことって一度もなかったんだ。周りから大事にしていたものが一気に消えて、俺はこのまま働いてどうするんだろうって思った。これまで自分は幸せだと思ってたけど、俺の幸せってなんだったんだろうってね。  モンゴルの草原を旅しているとさ、夜、すごく静かだろう。ゲルの外には星しかなくて、昼は三百六十度、草原しかない。でも空回りしてる感じはぜんぜんないんだ。毎日、ちゃんと生きている感じがする。こんな素晴らしい世界に生きられてるんだっていう実感が毎日あるんだ」  彼は黄色い僧服を着た若いお坊さんたちに目を向ける。 「人の営みは素晴らしいって思うんだ。世界のどこに行っても、人が生きているっていうことに感動するよ。仕事は好きだったけど、俺は仕事しか見てなかった。人生が急に止まってしまって、最初は焦ったし、何かをしようと躍起になってたんだ。急にジムに行ったり、やたら本読んだり。自分の役に立つことをしようと思ってた。将来のため、老後のため、なんか死ぬ準備をしてたみたいだったよ。まだ生きてるのに」 「そうですね。こんなに雪が降ってる中、馬に乗って山を登ってきて、ほとんど人がいない僧院に来るなんて、すごい、素敵なことだなぁ。登ってる間は落馬しないように必死でそんなこと考える余裕もなかったけど」 「そうそう、でも人生を振り返った時、そういう思い出のほうが心に残ってるもんだよね。わざわざ旅なんてしてなくても、人生は素晴らしいよ。自分の人生を味わうってことを、ちゃんとしていなかった気がする。いつも、準備にばかり夢中になってたから」  少し雪がやんだので、僧院の裏の山にある洞窟に行かないかとお坊さんに誘われる。そこに入ると生まれ変われるという洞窟があるらしい。 「人生が止まってくれたおかげで、俺は自分の人生を味わうってことを想い出せた気がするよ」 =+=+=+=+=+=+= ここまで読んでいただきありがとうございます! 3冊目出したので、物語が気に入ってくれた人はこちらもどうぞ。 ▼旅の言葉の物語Ⅲ/旅先で出会った55篇の言葉の物語。 https://amzn.to/3gCQ7VJ ▼エブリスタで非公開のお話が20話読めるのがこちらのマガジンです。 https://note.com/ouma/m/m018363313cf4 (今後書くお話も含めて20話になります)
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