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ルーマニアで会った女性と話す「優しい自分に戻る方法」の話
教会の写真を撮ろうと思って肩から下げたポーチからアイフォンを出すと、羽の折れた鶴が一緒に出てくる。尻尾を引っ張ると羽がパタパタする鶴で、いつでもプレゼントできるようにと持ち歩いているものだ。折れた羽を整えて動かしてみるが、バランスが崩れてしまったようでうまく動かない。そんなことをしながら橋の上で立ち止まっていたら、反対側から来た女性に話しかけられる。
「ハロー、すみません、シタデルってご存知ですか?」
ダークレッドのスーツケースを片手にした彼女は、きれいな英語でそう言う。
「ああ、シタデルっていうのはあっちのエリアのことを言うんですよ」
私は時計塔のある丘のほうを指さして言う。
「今、見えてるあの建物は?」
「あれは市役所ですね」
「隣は?あのあたりに教会はあるかしら」
「ありますよ。教会もいくつか」
「ああ、よかった。あのへんに宿を取ってるんだけど、どこだか分からなくて。近いはずなんだけど」
バスで着いたばかりという彼女は、これからホテルにチェックインするところのようだ。バス停から時計塔までは徒歩でも二十分ほど、ここからでも徒歩で十分程度だが、大きな石が埋められている道では丘を上がるのは大変だろう。
「近いですけど、スーツケース持ってるとけっこう大変ですよ。タクシーもそんなに高くないので、タクシーを使ったほうがいいかも」
「そうなの、でも先に両替をしないといけなくて。ルーマニアレイを持ってないのよ」
両替所はタクシー乗り場からも近い。私は彼女を案内することにして、鶴をしまって歩き出す。彼女は四十代後半か五十代前半くらいだろうか。目じりや額にしわも見えるし、金髪だっただろう髪の毛には白髪も混じり始めている。それでも、一人でここまでバスで来るということは、かなり旅慣れているのだろうと感じた。
「ルーマニアは初めてですか?」
「いいえ、ブカレストには行ったことあったの。ここは初めてだけどね」
「観光ですか?」
「ううん、家出」
何気ない会話のつもりが、意外な答えが返ってきて私は言葉に戸惑う。
「家出?」
「イエス」
のやりとりの後の言葉が見つからない。
「夫とケンカばかりで息が詰まったの。もう十五年も一緒にいるんだけどね」
信号のない大きな通りを前に、車の流れが途切れるのを待つうちに彼女は言う。
「彼は私が何を言っても気に入らないし、私もそう。毎日顔を合わせればケンカして、今度はお互い無視し合って。他の人に言われて全然平気なことでも、あの人が言うとイラッとしちゃうの。それで、キツイ言葉を叩きつけちゃう自分にもうんざり。一度そういうのから離れたかったのよね」
「それで一人旅してるんですか?」
「そう、実はもう三ヶ月、あちこちフラついてるのよね」
「旦那さんから連絡は?」
「たまに。でも気にしてないんじゃないかしら」
車の流れよりさらに先を見るような彼女の視線が気にかかり、私は彼女に聞く。
「本当は仲直りしたい?」
「さあ?ダメならダメでもいいの。でもどうやって人に優しくしてたのか、それを忘れちゃったのよね。私ってこんなにひどい人間だったのかなって、そう思って落ち込んじゃうの」
少し間をあけて、彼女は言う。
「優しい自分に戻りたい」
一台の車が横断歩道の前で止まり、私たちは軽く手を上げて早足で道を横切る。
「あなたは優しい人よね。こうやって会ったばかりの私を案内してくれるなんて」
「いや、それはたぶん、ヒマだからですね」
公平に見ても私は優しい人間ではなく、わがままな人間というほうが合ってる。優しい人に憧れもあるけど、それは星よりも遠い存在みたいだ。
少しの沈黙がつづいて、両替所の前に来た。タクシー乗り場もここからすぐですよ、道がでこぼこだけど、荷物がそんなに重くなければ、歩いてもそんなに遠くはないです。そう話す。
「ありがとう、ここでいいわ」
彼女の目じりのしわが深くなる。もともと彼女はこうして、よく笑う人だったんだろう。
「分かんないですけど、あなたが正直な自分を出せたら、優しい自分に戻れるんじゃないでしょうか」
「正直に?」
「そう、ご主人と仲良くやっていきたいんでしょう、本当は?」
別れずに期間を置こうとしているのは、どこか踏ん切りがつかないからだろう。本当は優しくしたいのにそうできない、彼女の気持ちが言葉の端からこぼれていた。彼女の本心はただ「私のことを分かってほしい」だ。優しい人に戻りたい。彼女は自分が本当は優しいのだと、ちゃんと分かっている。だから、厳しい言葉を浴びせてしまう今の自分が許せないのだ。
「そう、ね。本当はあの人から先にそう言ってくれたらって思うんだけど」「ほんとですよね、でもこういうのって、先に言えた人の方に、ご褒美がいっぱいくるもんなんですよ」
「そうかしら」
「さあ?たぶん」
そう言って、私たちは別れた。
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