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ルーマニアのスーパーで起こった「四回目の奇跡」の話
「おおー、また会ったな!」
道の反対側から声をかけられ、私も彼にならって大きく手を振る。埃まみれの白い馬車が通り過ぎるのを待って道路を横切ると、私よりも三倍くらいは横にサイズがありそうなおじいさんが、両手を広げて迎えてくれる。
「またコーラ買いに?」
「そうそう」
ルーマニアのシギショアラに、大型のスーパーは一つしかない。買いだめをしない私は頻繁にスーパーに通っているので、同じ人に何度も会うことがある。
学生の頃にアメリカに渡った彼は、最近になってルーマニアに戻ってきた。「人生の終わりが見えてきたから、故郷でのんびり暮らそうと思った」そう言っていた。興味があったけど後回しにしてきたことを、少しずつやっているのだと。自由の女神の頭に入ること、イギリスのストーンヘンジを見に行くこと、自画像を描くこと、子どもに英語を教えること。一つ何かをやり遂げるたびに、新しくやりたいことが出てきてしまい、やりたいことが尽きないと言う。人生の終わりと言いながらも、なかなか終わりそうにない人生を、私はうらやましく思う。
「キミに会ったのはもう三回目だっけ?」
私たちはスーパーの入り口に向かって歩き出す。彼は毎週日曜の午前中に買い物をしていて、コーラの缶をケースでいくつも買っていく。いつでもフレッシュな炭酸を味わいたいから、コーラはペットボトルでは買わないのだと言っていた。
「自画像描けました?」
「おおー、そうだ。ついにできたよ。我ながら傑作だね」
「着々と進んでますねぇ」
「人生は思ったよりも短いもんだ。やればやるほど、次の興味が生まれて、なかなか死ねないよ」
「あはは」
私たちはスーパーの中で一度別れ、それぞれの買い物を済ます。ベーコンを買うか豚肉の塊を買うかで悩んでいた私がようやくレジで会計を終えると、彼はコーラを積んだカートを手に入り口で待っていた。
「言い忘れてたけど、一つだけ、まだやれてないことがあるんだよ」
「なんですか?」
「友人に謝罪の手紙を出すことをね」
四十年以上前、アメリカに行く前に友人にしてしまったことを謝りたい、そう彼は言う。
私たちは入り口をふさがないように外に出て、彼の車が停めてあるところまで歩いていった。コーラのケースを荷台に積みこむのを手伝いながら、彼の話を聞く。
「まだこっちに住んでた頃、好きな女の子がいたんだ。かわいい子でね、マリアっていう名前で。一緒にカフェに行って話をすることも多かったし、ぼくたちはいい関係だったんだ。アメリカに行くのがもう決まってたから、彼女は寂しがってた。ぼくはアメリカに彼女を呼ぼうかなんてことまで考えていたんだよ。
それがね、ある時、いつもみたいにカフェでコーヒーを飲んでたら、彼女に相談されたんだ。好きな人がいるって。驚いたよ。彼女は絶対ぼくのことが好きだと思ってたんだ。
誰?って聞いたら、ぼくの友だちの名前が出てきた。前にぼくと一緒に会ったことがあって、それから気になってたんだって」
もうずいぶん昔のことなのに、今もそこにあるように鮮明に写る物語。そんな風になるなら、友人に会わせるなんてしなかったのに。その時の彼の気持ちが浮かび上がる。
「ショックだったよ。ぼくはもう、ここを離れないといけない。アメリカに行ってる間に友人が彼女をもってってしまうかも。そう思ったら眠れなくなるほどだったよ。
だけどね、友人のほうは仲のいいぼくたちを見て、彼女はぼくを好きなんだと勘違いしていたんだ。だから、ぼくはそれを利用した。彼女はぼくのガールフレンドなんだって、彼に言ったよ。彼は残念そうだった。何度か彼女と二人で話をしたことがあって、すごく気が合うし気になる子だなって思ってた、って言ってた」
荷物を積み終わり、彼は荷台のドアを閉めた。
「アメリカに行って数ヶ月して、彼から手紙が届いたんだ」
彼はそう言って、右手で少ない髪を触る。タバコのせいか少し茶色くなった口ひげは、言葉が出てくるタイミングを計っているようだ。
「彼女が事故で亡くなったって。ぼくはその手紙に返事を書けなかった。それから何度か、彼から手紙が来たけど、読まないまま全部捨ててしまった」
彼は一度、両手で額を強く押さえ、それから言った。
「死ぬ前に彼に手紙を出したい」
出せばいい、簡単なことだ。でも出せない。時間が密度を増して、彼を押しつぶしているかのようだ。
「出しましょう」
それでも私は軽々と言う。人に話したということは、ほぼ決心がついているということだ。あと何か一つ、世界が変わってほしいだけ。
「もう一度、キミに会えたら出すよ」
「ええっ」
「同じ町で日本人に三回も会ったのなんて今まで初めてだ。だから四回目の奇跡が起こったら、手紙を書くよ」
私はオーケーと言って彼と別れる。ずるいなぁ、やっぱり出したいんじゃないか、私は思う。だって、私は彼が日曜の午前中にスーパーに来ていることを知っている。その日を選んでくれば、ほぼ必ず会えるのだから。
仕方ない、行くか、そう思っていた翌週の日曜日。騒がしい音で目が覚めたと思ったら、雷雨だった。シギショアラでは、雨が降る時はだいたい雷雨になりやすい。涼しくなってよかった、と思いながら私はパスタをつくり始める。写真の整理をして、新作について考え、紙の上に線を走らせる。夕方くらいに日が射してきて、私はトイレットペーパーがなくなりそうなのに気づく。買いに行くかと思ったところで思い出した。四回目の奇跡について。
スーパーに着いたが、もちろん彼はいなかった。私はトイレットペーパーとオレンジをいくつかかごに入れてレジに並ぶ。また来週来るか、とも思うが面倒くさい。私は人に人生を左右されるのが極端に嫌いなのだ。トイレットペーパーを抱えて家に帰り、その翌日、私はスーパーで再び彼に会う。
「四度目の奇跡だ!」
軽く口笛を吹いて彼は言った。日曜日じゃないのに、と言うと、出せずにいた手紙を出して来たと言う。
「出したの?」
「ああ、出したよ」
「昨日会えなかったのに」
彼は眉を上げ、両手の手のひらを広げるようにして見せる。
「昨日は来なかったの?」
「来たけど、夕方だったよ」
「でもキミはここに来た。ぼくにはキミが来ることは分かってたんだよ」
そう言われて私は少し笑って言い返す。「私が来なくても、あなたは手紙を出すって分かってましたよ」
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