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うさぎ
岩井は自宅でテレビを見ながら一人鍋をつついていた。出前館で購入した二人前3980円のチゲ鍋セットを一人で食べている。テレビを見て、グフ、と不気味な声で笑い、缶ビールを一口飲む。
その時、ピンポーン、と部屋のチャイムが鳴った。こんな時間に誰だ。岩井は立ち上がって訝しげにインターホンのモニターを見た。そこにはスーツを着た男が立っていた。ここ数日の間にアマゾンで購入した商品はないので、新聞の勧誘か何かだと思い無視することにした。テレビの音量を下げて、静かに鍋から豆腐を箸ですくい上げた。きれいに持ち上がった豆腐はハムスターのようにでんと丸まって構えているようだ。
皿に入れて小さく箸で切り取り、ふー、ふーと念入りに息を吹きかけてからゆっくりと口に入れた。チゲの油っぽい出汁がしみた豆腐を頬張り岩井は幸せそうな息を漏らした。そして、そろそろと思いテレビの音量を戻そうとした瞬間、コンコンコン。
「すみませーん」
ドアの前から声がしたので、岩井はぎょっとしてそちらを見た。ドアの覗き穴に目を近づけるとスーツを来た細身の青年が立っているのが見えた。マンションのオートロックを抜けてすぐドアの前まで来ているようだ。不気味に思ったが、よくよくスーツの男を見ると小奇麗なスーツを着ていて人の良さそうな顔の男であったため取り敢えずドアを開けて事情を聞くことにした。
「なんですか」ドアを少しだけ開けて岩井は努めて低い声で言った。
「あ、夜分遅くすみません。夕方くらいから子供がいなくなってしまいまして、たいちという8歳の男の子でして、星の絵が入ったチョッキを着ていたんですけど、今日見かけたりしなかったですか?」
青年は丁寧なきれいな少し高めの声だった。
「大変ですね。もう警察へは連絡されてるんですか?」
「はい、連絡しています。今、警察の方と手分けしてマンションの住人に順番にお話を聞いているところなんです」
「残念ですが、そのような子を見かけていません」
「そうですか。すみません、一年前に近所で子供が誘拐された事件があったので、とても心配で心配で」
「それはお気の毒ですね」
「ありがとうございます。夜遅くにすみませんでした。失礼します」
「あの」
「はい?」
「今、警察の方もこのマンションの住人に聞き込みをしているんですか?」
「はい、そうなんです、それと何人かの警察の方に近所を捜索してもらってるんです」
「探すのを手伝いましょうか?」
「はい?」
「一人でも多い方がいいと思うので、私も周辺を探しますよ」
10月であったが、外はまだTシャツ一枚で過ごせるくらいの気温だった。
スーツの青年はマンションの住人に聞き込みを続けているので、もし見つけたら連絡をくださいと携帯番号の入った名刺を渡した。
岩井は意気揚々とマンションから適当な方向に歩き出した。実のところ、岩井は何も親切心のみで一緒に子供を探すことを手伝おうとしたわけではなかった。この手伝いをすることで、マンションの違うフロアに住んでいてたまにゴミ捨て場などで会うあのきれいな女性と喋る口実ができると思ったからだ。
この間は驚きましたね。
あの子がいなくなったことですか?
そうです。あの時僕も一緒に探したんですよ。いやー大変だったなー。
まあ、一緒に探してあげるなんて、とても優しい方なんですね。
このマンションの住民皆が体験した非日常を口実として話しかけ、そこから会う度に自然とお互いに挨拶を交わすようになり、料理を作りすぎたからどうですかとなって、お礼にと食事に誘ったりして、そしていつかはお付き合いをするようになることもあるかもしれない。岩井はにやけながら、近所を彷徨いた。たまに歩いている警官を見かけた。警官とすれ違うと、子供を見なかったかと話しかけられると思ったので、裏道に入った。岩井は警官と喋ることがとても苦手であったので、できれば喋りたくないと思っていた。
この裏道を突っ切れば大通りに出ると思いどんどん進んだのだが、途中行き止まりになった道を曲がり、そこから方向を正すために曲がって、二股に分かれた道をまた曲がってと繰り返しているとどんどん自分が進んでいる方角がわからなくなってきた。
道に迷っても困るので、反対側の通りに出るのは諦め、来た道を引き返して鍋の続きをしようと思って振り返ったとき、すぐ目の前の室外機の側面に小さい子供がもたれて座っていることに気づいた。
「うわ!」
急なことに岩井は驚いて後ずさりした。
子供は室外機の側面に座ってイヤホンをしながら小型のゲーム機を持っていた。子供も目を見開いてじっと岩井を見ている。
「たいちくん?」
岩井は優しい声で聞いた。子供は、何も言わずに小型のゲーム機に目を落としてゲームをやり始めた。子供がもたれている室外機の上に何かあったのでよく見ると、星の絵が書いてあるチョッキだった。星の絵は星マークではなくリアルな夜空の星の絵だった。
「たいちくんだよね。お父さん心配してるから帰ろう」
岩井は膝を屈めて子供に目線を合わせて言った。子供は無反応である。
「ほら、たいちくん帰るよ」
言うことを聞かないならしょうがないと思い、岩井は無理やり子供の手を引いて連れて帰ろうとした。すると急に子供が、
「わー!」
子供は大きな声を出して岩井の手を振りほどき路地を走り出した。
「待ちなさい」
岩井は急いで子供を追いかけた。しかし、路地を曲がったところで見失ってしまった。岩井は、ふー、と息をついて、逃げられたんだからしょうがない、と独り言を言って来た道を帰ることにした。
帰り道、子供を見つけたことを言おうと思い、青年から聞いていた電話番号にケータイから掛けた。
「もしもし岩井です」
「あ、はい、近藤です」
「さっき路地裏で-」岩井は途中まで言いかけたが青年が先に喋った。
「先ほど見つかりました!ご連絡が遅くなってすみません」
見つかった?岩井は呆然として立ち止まった。
「どこで?」
「公園の遊具の中で眠ってしまっていたようです。お騒がせしてすみません」
電話を切ったあと、岩井は自分がべっとりとした汗をかいていること気づいた。先ほどの子供はなんだったのだろうか。関係ない子供を連れて行こうとしていたのか。
その時、警察のような人影が路地を曲がった先から歩いてきているのが、窓ガラスの反射で見えた。反射的に岩井は逃げてしまった。今、その場で逃げる必要はないはずだが、咄嗟に逃げてしまった。
「はあ、はあ、はあ」
全力で走って光の入ってこない路地に身を潜めた。
そして、呼吸を整えてから、何してんだ、帰ろう、と独り言をいってマンションへ帰った。
途中、誰にもすれ違わなかった。また、迷路のような路地だったが、なんとなく歩いているうちに抜けて帰ることができた。
部屋には鍋が残っていたがもう食欲がわかなかった。ぼーっとした頭で岩井はシャワーを浴びた。そして、ベッドに入って寝ようとしたとき、ペットのうさぎに餌をあげることを忘れていたことに気づいた。
檻のある部屋のドアを開けると、垂れ流された糞尿の臭いがした。そういえば何日もトイレの砂を替えてないなと思った。岩井に気づいたうさぎは、檻のドアに体を勢いよくぶつけた。ドアはガシャンと音を鳴らした。それは、食事を忘れられたことに対する抗議のように見えた。いや、それだけではないのかもしれない、両親や兄弟と離れ離れにされ、空気の澱んだ檻で不自由な生活を送らされていることに対する抗議なのかもしれない。岩井は、うさぎから充血した目で睨みつけられているように感じた。岩井は怖くなってすぐに人参を檻の中に放り込んだ。うさぎはそれに飛びついて一心不乱に貪った。岩井はしばらくその様子を眺めた後、逃げるように部屋をあとにした。
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