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第四話
布施主任とふたり会社を出ると、すぐ前の通りでタクシーに乗せられた。
「何か食べに行くか」とは言われただけで、どこに行くかは聞かされていない。タクシーを使うなんていったいどこまで行くのかと思ったけど、それは私の体調を気づかってのことだったみたい。連れて行かれた先は、歩いても行けそうな場所にある小料理屋だった。
「穂乃華」と書かれた暖簾をくぐると、カウンターだけの店内は小綺麗で落ち着いた雰囲気。カウンターの向こうには、和服の上にしゃれた織り柄の割烹着を身につけた女将さんが立っている。年のころなら40前半くらいだろうか、色白で和服のにあう女性だ。
一方、私は、気つけの缶コーヒーが効いたのか、店に着くころには元気がもどってきていて、多少落ち込みぎみだった気分もすっかり復活。興味津々の顔をして店内を見渡していた。
「ここって、布施さんの行きつけのお店なんですか?」
彼と並んでカウンターに腰を下ろす。
「まぁな」
と短い答えが返ってきた。
ふぅんと鼻を鳴らしながら、もういちど店内を見回す。下町情緒をただよわせる純和風の内装は、ノスタルジックでいながらモダンなセンスを感じさせる。都会の隠れ家って雰囲気のすてきなお店だ。
あんまりお酒好きって感じのしない布施主任に、こんなお店があったなんてちょっと意外な感じがした。
ふたりが席につくと、女将さんがカウンターの向こうに立った。
「珍しいわね。布施さんが女の子を連れてくるなんて」
言いながら、布施主任へとおしぼりをさし出した。
すると彼は、「女の子?」と不思議そうな顔で、チラリと私を見た。「ああ、まぁ、そうかもな」
なんともそっけない口調。行きがかり上、しかたなく誘ったのかもしれないけど、花のOLとカウンターでツーショットなんだから、もう少しうれしそうな顔をして欲しいものだ。
とはいえ、この男の無愛想は折り込みずみだし、いまさらどうこう言う気もない。
私は、続いてさし出されたおしぼりを受け取りながら、
「会社の後輩の田代です」
可愛い子ぶってほほえんでみせた。
「田代さん?」
「はい、田代朱美。花も盛りの25歳!血液型はO型、趣味はカラオケ、ただいま恋人募集中で~す」
いっきにしゃべると、彼女はおかしそうにクスクスと笑った。
「楽しそうな方ね」
「よく言われます」
「私は綾乃です」
「綾乃さん?」
「ええ。おっとりほのぼのしてるでしょ?だからお店の名前は『穂乃華』。お店ともどもよろしくお願いします」
ていねいにお辞儀をされて、私もペコリと頭を下げた。
こうして、ひとしきりのあいさつが終わると、
「とりあえず、何かすぐにできる食事をこの子に出してもらえないかな」布施主任が言った。「あと、俺にはビールを」
それを聞いた綾乃さんが、小さく首をかしげた。
「田代さんはお酒は召し上がらないの?」
「あ、いえ、そんなことは…」私はあわてて首を振った。「あの、食事はいいですから、私もビールお願いします」
「だいじょうぶなのか?」
布施主任が心配そうにこちらを見てる。
「へいきです。それに、こんなすてきなお店に来て、お酒を飲まないなんて失礼じゃないですか」
「そういう問題かよ」
「そういう問題です!」
きっぱりと言うと綾乃さんに向かって、
「あ、気にしないでください。とりあえずビールとグラスをふたつ、お願いしま~す」
指を二本立ててVの字をゆらしてみせた。
一本目のビールは、それこそあっという間に空になった。
そして二本目のビールが空くころには、しだいにくだけた雰囲気になってくる。さらに、いきつけの店という気安さもあってか、いつもは口数の少ない布施主任の口先もなめらかだったりする。
彼の話によると、このお店は、布施主任が中部支社に転勤になる前のまだ新入社員時代に、当時の先輩によく連れて来てもらった店なのだそうだ。
先輩というのは去年まで営業1部の課長だった室田さん。ただ、長らくこの店の常連だった室田さんは、布施主任が東京に戻るのと入れ替わりに、会社をやめて故郷の九州に帰っている。なんでも、熊本の旅館のあとつぎらしく、家をつぐために帰らざるをえなかったのだそうだ。そしてその後、室田さんのあとを引きつぐ形で、布施主任がときどき顔を出しているらしい。
店には、ほかに二人づれの客が一組いるだけだった。カウンターの向こう岸で、釣の話で盛り上がってる。
そんなこともあって、やがて料理を出し終えた綾乃さんも、私たちの会話に加わってきた。
すると、そのころにはすっかり気分がよくなっていた私は、ついさっきオフィスであった出来事をおもしろおかしく彼女に話した。布施主任にはだまっていた事の真相までふくめてすべてを。
「…てことは、朝もお昼も食べずにいたのに、ビールをおいしく飲むためだけに、3時からなにも口にしないで残業してたってこと?」
話を聞き終えた綾乃さんが、おどろいた表情を浮かべた。
私はあはっと笑って首をすくめた。
「そういうこと、かな」
「あきれたヤツだな」
布施主任に言われ、私はほほをふくらませた。
「いいじゃないですか。このところ忙しくて、それくらいしか楽しみがなかったんですっ」
「だとしても朝昼ぬきだったなら、残業で飲みにいけなくなると分かった時点で、何か食べておくってものだろ」
「そんなこと言ったって……」
それもこれも急に会社に戻ってきた布施主任のせいだ。とはいえ、まさか彼への対抗心で急に残業を始めたなど言えるわけはない。
「どれだけおどろいたと思ってるんだよ」
「すみません。でも、私だってびっくりしたんですよ。布施さんったら、いきなり、『いま救急車を呼ぶからな』とか言い出すし」
「そんなことを言ったの?」
「そうなんですよ。もぉっ、聞いて下さいよ。ちょっとフラッとしただけなのに、いきなり携帯を取り出して電話しようとしたんですから。このまま会社に救急車を横づけされたらと思って、すっごくあせったんだから」
「たおれた理由が理由だものね」
綾乃さんがクスリと笑った。
実際、あのときの布施主任はかなり狼狽していた。いつも冷静な彼があわてふためく姿は、いま思い出すとちょっと可愛い感じもする。しかし、そんな姿を指摘されるのは、彼には面白くないことだったらしい。
「ちょっとフラッとってのは、違うんじゃないか?」
ポーカーフェイスの彼には珍しく、口調がムッとしている。
「え~っ、違いませんよぉ。だって、そのあとすぐにソファまで歩いて行ったじゃないですか」
からかい半分に言ってみた。
「歩いてって…、あれは俺が支えてやったからだろ。真っ白な顔してぐったりしてたくせに……」
すると、
「いいじゃない、どっちでも」
綾乃さんがふたりの間に割って入った。
「おかげで、今夜、朱美ちゃんがこのお店に来たんだから」
ね、と同意を求められ、私は笑ってうなずいた。
チラリと隣の席を見ると、端正な横顔がなんとなくふくれっ面に見える。
私は、カウンターの向こうの綾乃さんと目を合わせ、小さく首をすくめてみせた。
ふだんはクールに見える布施主任だけど、意外とムキになるところもあるみたい。そう思うと、これまで知らなかった彼の素顔にふれた気がして、なんとなくうれしくなった。
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