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そのあと少しのあいだ、私は綾乃さんと話をして過ごした。
そして、拗ね気味だった布施主任もふたたび会話に戻ってきたころ、ほかのお客さんからお勘定の声がかかり、綾乃さんが外れてふたりになった。
お酒もすすんでほろ酔い気分。そろそろ切り上げるにはいい時間だ。
ただ、私には、引き上げる前に彼に聞いてみたいことがあった。あのジャニーズ工業の大型受注の話だ。
「そういえば、夕方会社で電話してましたね」
思い出したふりをしてそう切り出した。
「電話?」
「会社に帰ってすぐ、携帯で」
「あれか」
「前からあったジャニーズ工業の件ですよね?」
「ああ」
「取れそうなんですか?」
「まぁな、最後の詰めさえまちがえなきゃ、今期中になんとかなるだろ」
やっぱりと私は思った。
「規模は?ひょっとして、丸ごとですか?」
「たぶんな」
「そうなんですか」
おめでとうございます。とつけ加えたものの、同時に小さな溜息がもれてしまった。
すると、布施主任はチラリとこちらを見て、ふしぎそうな顔をした。
「どうした?」
「えっ?」
「なんか不満そうじゃないか」
「べつに不満とかじゃないんですけど、ただ……」
「ただ?」
「今回も勝てないんだなって思って」
「勝てない?」
「営業表彰です」
たぶん、布施主任とこんなふうに話をする前の私だったら、こんなことはぜ~ったいに口に出さなかったはず。ただ今夜、彼のふだんは見られない一面にふれて、思わず本音がもれてしまった。
すると、隣の席の布施主任は、ちいさくふんと鼻で笑った。
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって……」私は眉をしかめ、ジロリと彼を見た。「余裕ですよね~」
「余裕?」
「そうですよ。ま、とうぜんですよね。何期も続けてトップを走ってるんだから。そんな人には、追いつこうと頑張っても追いつけない下々の気持ちなんて分かるはずないか」
いじけた口調で言った。
「下々って、なに言ってんだ?」
彼はあきれた声を出した。
「べつにぃ、なんでもありません」
拗ねたしぐさで、あさってのほうを見た。
私はおもしろくなかった。それは、今期もまた布施主任に勝てそうもないからではなく、この一年間、私が内心ずっとこだわってきた営業表彰を、彼が取るに足らないことのように言ったからだ。
ちいさな沈黙があった。そして、布施主任がつく溜息が聞こえた。
「田代がそれをはげみに頑張ってきたならあやまるよ」
静かに彼は言った。
私は、反対に向いた顔をもどして彼を見た。
「べつに天狗になってるわけじゃないさ。ただ営業表彰にはいろいろ言いたいこともあるんだ」
「どういうことですか?」
「表彰をはげみに努力することは悪いことじゃないさ。それを目的に作られた制度だし、それなりに意味のあることだと思ってる。ただ、あの順位づけがそのまま営業の優劣を表すと考えるのは大間違いだってことさ」
「どうしてですか?」
「どうしてって、田代はそう思ってるのか?」
「あたり前じゃないですか。営業は結果が、数字がすべてなんですよ。どんなに良いものを作ったって、技術が頑張ったって、営業が売らなければそれまでじゃないですか」
「うちの会社でよく聞くせりふだな」
その言葉に、私はカチンときた。
春の歓迎会で交わした会話はいまもはっきり憶えてる。憶えてるどころか、この一年の私の頑張りは、すべてあのときの彼の言葉に対する反発がきっかけになっている。
「そのせりふのどこが悪いんですか?」
私は、明らかにムカついた口調でくってかかった。
「それは、一面では真理であっても、すべてが正しいわけじゃないってことさ」
「そんなもって回った言いかたじゃ分かりません。もっとはっきり言ったらどうなんですか?」
挑発的な台詞を吐いて彼をにらみつける。
店の中に響いた私の声に、カウンターの向こうの綾乃さんがおどろいた顔をしてる。
「ならこう言えばわかるか?」
低く押しのきいた声で布施主任が言った。冷静をよそおってるけど、かなりムッとしているようだ。やっぱりこの人って、いがいと血の気が多いみたいだ。
「たった三ヶ月の実績で営業の何が分かるっていうんだ。今回取れそうなジャニーズ工業だって、たまたま俺が担当していただけで、何年も前からの前任者の努力があったからの結果なんだ。そもそも、営業の数字なんか、担当してる地域でも大きく変わるものだろ?幸い俺は東京に呼ばれて、でかい会社ばかり担当させてもらっている。連続トップかなんか知らないが、それなりに数字を上げて当たり前じゃないか」
「大手を担当してるのは部のエースだからじゃないですか。それだって、布施さんの力を見込んで上の人が決めたんだから実力の一部だと思います。それに、地方はともかく本社には、ほかにも大手を担当している人はたくさんいますよね?」
「たしかにそうだな。大手を担当しながら数字が上がってないヤツもいるさ。ただ、いくら大手といっても受注には周期がある。大切なのはつぎの波を逃さないように、一年先、二年先のためにいま何をしかけられるかじゃないのか?それなのにうちの会社ときたら、目先の数字ばかりにとらわれて、先を見越した戦略的な営業ができていない。俺はそのひとつの象徴が、あの営業表彰にあると思ってるんだ」
畳みかけられるように言われて、私は返す言葉が無かった。
布施主任の言っていることは分かる。分かるけど、納得できるかどうかは別だ。
私は唇を真一文字にして黙り込んだ。
隣でまた、布施主任がおおきな溜息をついた。
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