第六話  

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  第六話  

 そうこうしている内、2月はあっという間に終わり3月になった。  そして、布施主任は言葉の通りジャニーズ工業を受注した。  久々の大型受注だったわりにたいした競合もなくあっさり決まった背景には、綿密な下準備と根回しがあったらしい。当然のことながら布施主任の株は天井知らずのうなぎ登り、彼自身二度目となる社長表彰や最年少の課長昇進の噂などが、まことしやかにささやかれ始めていた。  一方で私はといえば、1月の営業成績こそ好調だったものの、2月以降はあえなく失速。トップ3どころか、個人予算の達成すら危ぶまれるようなていたらくだった。  ただ、私の名誉のためにつけ加えると、この不況の中で予算達成とて簡単なことじゃない。たぶん私の営業成績だって中の上くらいの位置にはいるはず。けっして落ちこぼれというわけではないのだ。  とはいえ、かりにもトップセールスをめざすと大見得を切った私にとって、それが納得のいかない成績であることもまた事実。大規模受注にわき上がる部内を横目で見ながら、私は内心悔しさでいっぱいだった。  そんなある日、今期もあと数日で締まろうという月末の日のこと。 「ね、話があるんだけど、ちょっといい?」  打ち合わせを終えて席に戻るやいなや、私は矢野に声をかけた。 「はぁ、少しなら…」  パソコンとにらめっこしていた矢野が顔を上げる。 「ならあっちのコーナーに来てくれない?あ、手ぶらでいいから」  彼をオフィスの一角にある打ち合わせコーナーへと誘った。  不思議そうな顔をしながらも、矢野は言われるままについてくる。 「話ってなんなんスか?」  パーティションに仕切られたコーナーに着くと、テーブルの向こうに座りながら矢野が言った。 「じつはね。今、部長と話したのよ」 「谷垣部長とですか?」 「そ、あなたの来期の担当についてね」  それを聞くと、矢野の表情が急に引き締まった。  4月になれば彼も入社二年目、いよいよ一人前の営業マンとして担当を持たされる時期だ。  自分がどこの会社の担当になるのかについては、気になっていたのだろう。 「で、どこなんですか?」  身を乗り出してくる。 「マリノス自動車」  短く言うと、「はぁ?」と矢野は間の抜けた声を出した。 「マリノスって、布施さんが担当してるあのマリノスですか?」 「そうよ」 「じゃあ、来期は俺、布施さんと一緒に…」 「彼は担当を外れるわ」 「え”~っ!」叫んだのち一瞬矢野は言葉を失った。そしてすぐさま懸命の形相で噛みついてきた。「なに考えてるんですかっ!マリノス自動車っていったら大手じゃないすか。それをいきなり俺みたいな新人に担当させるって…」 「慌てないで、話は最後まで聞きなさいよ」 「んなこと言ったって…」  彼の気持ちも分からないではない。マリノス自動車といえば我が部の中でも大手のひとつ、それを入社二年目の彼に担当させるなど、どう考えても無謀だ。そんなことは分かりきってる。それをあえてこんな形で告げたのは、彼の反応を見たかったからだった。  予想通り、この世の終わりとでも言いたげな表情だ。 「誰もひとりで担当しろなんて言ってないじゃない。矢野が担当するのは半分。それとあともうひとつ、手頃なところでタイガース製薬もね。こっちは丸ごと全部だけど、ま、規模も小さいし、癖のないお客さんだから問題ないんじゃない?」 「タイガース製薬はいいっすよ。あそこは代々新人が担当してるんですから。そんなことよりマリノスですよ。俺が半分って、残りの半分は…?」 「もう半分はあたしが担当するわ」 「朱美さんがですか?」 「そう、予算も実績もきっぱり折半。どう?悪い話じゃないでしょ。半分だとしても、マリノス自動車の規模だったら、同期の中ではトップクラスの稼ぎ頭になるはずよ」 「そりゃそうですけど…」  矢野は、なおも困惑した表情のまま口ごもってる。 「情けない顔しないでよ。大丈夫、あんたは事務処理だけしてくれればいいわ。お客さんとの窓口はみんなあたしがするから。それなら文句ないでしょ?」 「事務処理だけっていっても、マリノス自動車の発注量は半端ないじゃないですか」 「もぉっ、なに言ってんのよ」呆れた声で言うと、テーブルの上に身を乗り出した。「いくら発注量が多くたって、布施さんは他もやりながらひとりでこなしてたのよ。いくら新人だからって、これくらいでビビっててどうすんのよ」 「んなこと言ったって…」  矢野は、相変わらず歯切れの悪い口調で、恨めしげにこっちを見てる。  思った以上のビビりかただ。  矢野という男は、見かけは無骨で押しの強い男ながら、かなりの慎重派で気が小さな所がある。石橋を叩いて壊すタイプだ。学生時代、柔道の選手だった彼は、大きな試合ではいつも逆転負けを食らっていたらしいが、それもきっとこの性格のせいに違いない。  テーブル越しに彼の様子を伺いながら、私はどうしたものかと考えていた。
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