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第七話
マリノス自動車株式会社は、自動車御三家の一角を占める日本を代表する大企業だ。大きさだけでいうなら営業三部が担当する顧客の中でも頭抜けていて、私がこれまで担当してきたお客さんとは規模が違う。
引き継ぎのために訪れた本社ビルは、私にその事実を再認識させるほどの大きさと華やかさだった。
国際本社と名付けられたビル群は、軍艦を思わせるような巨大なビルの集まりで、その全てにMarinosという赤いロゴが掲げられている。中心となる第一本社ビルの一階は全面ガラス張りのショールームになっていて、吹き抜けになった広大な空間にたくさんの車が展示されている。そこにはブティックやカフェ、果てはちょっとしたコンサートが開ける規模のホールまであって、一大イベント空間となっていた。
この第一本社ビルの隣に従うように建つのが、グローバル購買本部の置かれた第二本社ビル、今日の私の訪問先だ。このビルだけとっても、いままで私が担当してきたお客さんのどの本社ビルより大きい。
ビルに入ると、購買専用の受付の前にはこれまた大きな待ち合いフロアがあって、並んだソファにたくさんのビジネスマンが座っている。ビヤ樽のような体型をした白人や、ターバンが似合いそうな浅黒い顔の人、タイトスーツのブロンド美女までいて、国際色ゆたかな風景はまるで空港のロビーのようだ。
そんな待ち合いフロアのソファに腰を下ろし、私は腕の時計を確かめていた。
布施主任と交わした約束の時間まではまだ少しある。この時間を利用してスケジュールの再確認をと、ショルダーバッグから手帳を取り出した。
期が変わり、正式にマリノス自動車を担当することになって、覚悟していた事とはいえ多忙な日々が始まっていた。引き継ぎだけを考えても、今日の購買部を皮切りに生産部や開発部を回らなければならない。そのうえ、これまで担当してきた会社もまるごと残っていて、こっちも手を抜くことなどできない。開いた手帳の上には、びっしりと今後の予定が書き込まれていた。
手帳に視線を落とし、当面の予定を眺めていると、
「早いな」
前に人が立つのを感じた。
布施主任だった。
「早く来いって言ったのはそっちじゃないですか」
手帳を閉じ、鞄に戻す。
彼は「まあな」と頷きながら、私の隣に腰を下ろした。
「これから会う購買課長は特別時間にうるさいんだ。引き継ぎの挨拶から遅れたりしたら、この先やりづらくなるだろうと思ってね」
「いろいろ気を遣って戴きまして……」
私は小さく首をすぼめた。
布施主任とは、あの一件以来、ときどき話をするようになっていた。
話と言っても短い雑談や仕事の情報交換程度なのだけど、これまでは背中合わせに座っていながら、ろくに話もしなかったのだから大きな変化だ。無口でぶっきらぼうだと思っていた布施主任も、話してみると意外と普通で、私の中の評価もまあ人並みのレベルくらいには持ち直してきている。
「田代のことは心配してないけどな」布施主任は、そう言いながら時計を見た。アポの時間までにはまだ少しある。「ただ、心配なのはアイツだよ」
「アイツって矢野のことですか?」
「ああ、ついさっきまで、ここの事務処理の引き継ぎをしてたんだ。複雑な処理であることには違いないんだが、分かっているやらいないやら、なんとなく頼りないんだよな」
今日、矢野が布施主任から引き継ぎを受けることは聞いていた。本当は私も同席したかったのだけど、すでに入っていたアポのリスケができず、しかたなく矢野ひとりに任せたのだった。
「そんなこと言ったって、もう新入社員じゃないんだし」
「それはそうなんだけどな」
語尾を濁して、布施主任はあいまいに頷いた。
彼の言いたいことは分かってる。たとえ半分だけとはいえ、入社二年目の矢野がいきなりマリノス自動車ほどの会社を担当するには無理があるというのだ。彼は、矢野が半分担当するのなら、残りの半分は自分が担当すると部長に申し出たらしい。これまで担当してきた自分なら、手を貸すこともできるからというのだ。しかし、その申し出は受け入れられなかった。彼らふたりが組んだりしたら、おそらく矢野は単なるお手伝いになってしまう。それでは布施主任の負担を減らすことにならないし、さらには矢野の育成という意味からもいいことは無いからだ。
「あの子だって意外とやりますよ。根性あるし」
冗談めかして私は言った。
案ずるより産むが易し。このときはまだ、気楽にそう思っていた。
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