ー Prologue ー

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 ほんわかとした日ざしがさしこむ月曜の昼下がり。あたし、浅倉奈緒は、オフィスの机からガラス越しに空をながめていた。  ビルの向こうに広がる空には、もこもこやわらかそうな雲が並んでいる。これぞひつじ雲といった感じの秋の雲だ。  いつも奈津美さんが座っている前の席も、今日はあいたまま。彼女はお休みをとって京都にでかけている。土曜日から二泊して、いまごろは帰りの新幹線の中かもしれない。 「京都かぁ……」  つぶやいてみた。  京都にはこれまで三回旅行したことがある。一回は家族と、そしてあと二回は友だちとだ。ただ、秋にはまだ訪れたことがない。秋の京都はきっとすてきだろう。響とふたりで巡り歩いたら、きっとロマンチックな気分になるにちがいない。  そんなことを考えていると、まだ行くと決まったわけでもないのに待ち遠しい気分になってくる。ふたりで歩く紅葉の三千院あたりを、ほのぼの想像していたときだった。  とつぜん目の前の電話が鳴り出した。  点滅するランプが社長専用のダイヤルインを示している。  あたしは素早く受話器を取り上げ社名を名乗った。  受話器の向こうから、落ち着いた女性の声が聞こえてくる。 「堂本です」  堂本摩耶さんだ。  社長夫人からの電話に緊張が走った。 「ごぶさたしています。浅倉です」  背筋を伸ばして言った。 「浅倉さん?」 「はい」 「お久しぶりね。元気にしてらっしゃった?」 「はい、おかげさまで」 「ならよかったわ」あいかわらず、穏やかだけど凛とした声だ。「安藤さんをお願いできる?」 「それが、あいにく安藤は本日お休みを戴いておりまして……」  声を落として言うと、 「そう」と、彼女は一拍間をおいた。そして、「うちの人のスケジュールを確認したかったのだけど」小さくつぶやいた。 「でしたら、私がお調べします」  すかさず、あたしは言った。  奈津美さんの手できれいに記入されたスケジュール帳を見れば、社長のスケジュールはすぐに答えられた。 「ありがとう、助かったわ」  そつのない対応に、満足していただけた様子だ。 「いえ、どうしたしまして」  ここまでの受け答えは完璧だった。  しかしそのあと、電話を切る直前になって、 「あ、そうそう、そういえば…」  急にくだけた口調で摩耶さんが言った。 「浅倉さんって、最近、すてきな彼ができたんだって?」  彼女とは、これまで何度か言葉を交わしたことがあるけど、こんなラフな感じで話しかけられたのは始めてのことだ。気さくな一面を持った方だとは聞いてはいたが、まさか響のことを聞かれるとは思っていなかった。 「あ、はい……、それは、あの、おかげさまで」  びっくりしたあたしは、しどろもどろになってしまった。 「いいわねぇ、若いって」はぁと一つ溜息をつく。「ただ、あまりはしゃぎすぎたらダメよ」 「は、はいッ!」  思わず、電話口で敬礼してしまった。  そんな様子が伝わったみたい。彼女は電話の向こうでクスクスと笑ってる。 「そんな緊張しなくてもいいわよ。社内はこれまでもいろいろあったし、こじれると厄介だから言っただけなんだから。なんでも、やたらイケメンらしいじゃない」 「はい、あの…、おかげさまで…」  そう繰り返すだけのあたしに、 「貸出しとかしてないのよね?」  まじめな口調で言った。 「え?それは…、あの…」  あたしは、なんと受け答えしていいかわからずに、口ごもってしまった。  摩耶さんは、「冗談よ」と可笑しそうに笑ってる。あたしが戸惑っているのを面白がってるみたいだ。  堂本摩耶さんは、社長夫人であると同時にこの総務部の大先輩でもある。  いまを遡ること15年前、当時企画課長だった堂本社長と結婚して退職。彼女は当時30代前半だったそうだから、いまは40代後半のはずだ。  堂本氏は後に部長に昇進、その後もとんとん拍子に出世して、二年前に社長の椅子についている。  最後に、「じゃあね」と明るい声をのこして、摩耶さんからの電話は切れた。 「ふぅ……」  あたしは、受話器を置くと同時におっきく息をついた。  摩耶さんと話をしたのは久しぶりだけど、相変わらず緊張する。  それはもちろん、摩耶さんが社長夫人だからなのだが、それだけではない。彼女はいまだに社内のいろんな人との間にパイプを持ち、会社の内情に精通している人だからなのだ。それが証拠に、数回話したことがあるだけのあたしのことだってきっちり憶えている。そればかりか、響とつきあってることまで知っているのだから驚いてしまう。  そこまで考えてみて、でも、と思った。  それって誰に聞いたのだろう?  たしかに響は社内の女の子の噂のまとだ。あたしと彼がつきあってることも社内中に知れ渡ってる。でもそれはいわばゴシップネタ。わざわざ社長夫人の耳に入れるような話とは思えない。  いったい誰がそんな余計なことをと考えてはみたものの、ふたたび机の電話が鳴ったのをきっかけに、そんな疑問はすっかり私の中から消えてしまっていた。
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