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割烹着を綾乃さんに返し、私は布施主任の隣の席に座った。
「朱美ちゃ~ん」
カウンターの向こう側で、梶さんが悲しそうに手を振っている。
「梶さ~ん、また今度ねぇ」
などと手を振り返していると、
「すっかり馴染んでる」
隣で布施主任がつぶやく声が聞こえた。
「おかげさまで」私はにんまりと笑ってみせた。「ここって常連のお客さんもいい人ばっかり。ホントいいお店を教えてもらって感謝してるんですよね」
「よく来てるのか?」
「ん~、よくってほどじゃないですよ。ならして週に二回くらいかな」
「それのどこが、よくってほどじゃないんだよ」
言われて、あはっと私は笑った。
あの一件ではじめて穂乃華を訪れたのが2月、以降私は頻繁にこの店を訪れていた。
落ち着いたお店の雰囲気やお料理の美味しさはもちろん、綾乃さんともすっごく話が合って、ずっとひとりで飲みに行けるお店が欲しかった私にとって、穂乃華はまさに探していた通りのお店だったのだ。4月に入り担当が増えてからは、忙しさでペースは落ち気味にはなっていたが、それでも最低週に一日は欠かさず顔を出している。
一方で布施主任はといえば、私が知る限りその間一度も顔を見せていなかった。例の大型受注でてんてこ舞いの日々を過ごしていたためだ。職場で見る彼は、いまも変わらず忙しそうなのだけど、こうして久々に穂乃華を訪れたということは、少しくらいは落ち着いてきたのかもしれない。
その後しばらくのあいだ、私たち二人は、さしつさされつで話をして過ごした。
話題といえば、うちの課の石破課長が得意先でぎっくり腰になったとか、谷垣部長が娘さんのできちゃった婚でおじいちゃんになったとか、どうでもいいようなことばかり。
そしてそんな会話も一段落したころ、
「ところで、あそことは上手くいってるのか?」
布施主任が話を振ってきた。
「あそこって、虎ちゃんのいるM社ですか?」
あえて社名を伏せて尋ねると、「虎ちゃん、か」と彼は苦笑いを浮かべた。
「その虎ちゃんとうまくやってるか心配してたんだが、そんな必要はなさそうだな」
「おかげさまで関係は上々です。私のことを気に入ってもらえたみたいで、今度、新しい開発部の人を紹介してくれることになってるんです」
「それはたいしたもんだな」
感心したといった感じで、彼は小さく首を振った。
「かなり癖のある人だってことは、いろんなところで聞くんですけどね」
「ああ、かなりの曲者だよ。俺はあの人だけはどうにも苦手だったんだ」
「まあ、布施さんならそうでしょうね」
笑って言った。
「どういう意味だよ」
「だって、ヨイショは苦手だし、意外と気は短いし」
「ほっとけ」
拗ねた口調がちょっと可愛い。
私は、ニンマリとした笑みを浮かべて横顔を覗き込んだ。
すると、
「ただ、な…」
急に真面目な表情で、彼は言った。
「田代の頑張りに水をさすわけじゃないが、あの人とは少し距離を置いてつきあった方がいいかもしれないな」
「どういうことですか?」
「これは単なるうわさ話だし、変な先入観を与えてもいけないと思って引き継ぎでは話さなかったんだが、あの人にはあんまりいい話を聞かないんだ」
「黒い噂があるんですか?」
小さく首を傾げた。
彼は一瞬ためらうかのように話すのをやめた。
「業者との癒着、とか?」
続けて尋ねると、
「まあ、そんな感じだな」
言葉をにごした。
「なんなんですか、そこまで話しておいて。ちゃんと教えて下さい」
唇を尖らせると、彼は、しぶしぶといった感じで口を開いた。
「田代の言うとおり、癒着さ。うわさ話でどうこう言うのもよくないとは思うんだが、あの人の業者びいきには度が過ぎるところがあるらしいんだ。もちろん、ああいう性格だし、好き嫌いはあるんだろうが、それを差し引いても極端じゃないかと思うくらいにね」
たとえば?と聞いてみた。でも具体的な話は教えて貰えなかった。うわさの出所についても、はっきりとは言いたくないような感じだ。
その様子から、私は、彼にこの疑惑を教えたのは松野主任じゃないかと思った。
超がつくほど慎重派の布施主任が口にする以上、これが単なるうわさ話とは思えない。それなりに根拠のある話なのだろう。ただ、私に話せば私が誰かに話すかもしれない。証拠もない状態でうわさが広がり、うわさの出所が分かるようなことがあったら松野主任の立場が悪くなる。そう思ってはっきりとしたことは言えずにいるのかもしれない。布施主任ならありそうな話だ。
「まあいちおう、気をつけますけど…」
不満に頬をふくらませて、私は言った。
私のことを心配して、本当ならば言わないことを教えてくれたのなら嬉しい。ただ、それならそれでちゃんと話して欲しかった。ほかで話すなと言われれば話すつもりなどない。口の軽い女だと思われている気がして、悔しいというより、ちょっと悲しかった。
拗ねた気分で口数が減ると、彼はそれを気にしたみたいだった。
「ただのうわさ話だし、なにより田代なら心配することはないと思っているけどな」
とか言いながら、私のグラスにビールを注いでくれた。
なにか言い返してやろうかと考えていると、ちょうどそのとき、カウンター下に置いたバッグで携帯が鳴り出した。
取り出して開くと、発信元は会社の番号だった。
「会社からみたい」
ちいさく言って椅子を立つ。
急ぎ足で引き戸を抜けて店の外に出た。
「もしもし」
「あ、朱美さんですか?俺、矢野です」
「なんなのよこんな時間に、あんたまだ会社なの?」
店からもれる明かりで腕時計を見た。もう夜の10時を大きく回っている。
「はぁ、すみません。処理が追っつかなくて…」
マリノス自動車の事務処理を担当させて一ヶ月半、ずっと矢野が忙しそうにしていたことは分かっていた。しかし、たいへんなのは今のうち、慣れてさえくればどうにかなると気にとめてはいなかった。
「しかたないわねぇ」大きな溜息をついた。「いま言われてもどうにもできないわ。切りのいいところまでやったら、とにかく今夜は帰りなさいよ。話は明日聞くから」
「はぁ、それが…」
口ごもっている。
なんとなく嫌な予感がした。
「なんなのよ、はっきり言いなさいよ」
「それが実は…」
「うん」
「マリノスの注文で手配もれが見つかって…」
「はぁっ?」
甲高い声で私は言った。
「すみませんっっ!」
携帯の向こう、大声で謝る声がした。
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