第九話  

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 購買の待ち合いフロアに着くと、受付をすませて松野主任が現れるのを待った。  ところが、その場に現れたのは虎谷課長だった。松野主任の姿は見えない。  私は胸の内で小さく舌打ちをした。  今日のところは松野主任と話をしておいて、虎谷課長への謝罪は上司を連れてあらためてと思っていたのに、この状況は完全な想定外だ。 「松野から話は聞いたよ。アイツはいろいろ忙しいんだ。話は私が聞く」  受付前で顔を合わせるや、すげない口調でそう言うと、虎谷はエレベーターに向かって歩き始めた。  慌てて後を追う。  連れて行かれた先は、いつもの打ち合わせコーナーではなく、同じ二階に設けられた個室だった。細長い室内には十人がけの会議テーブルとワイトボードが置かれた会議室だ。 「詳しく話してみてよ」  テーブルの向こうに座った虎谷が言った。  このところ、会うたび上機嫌な虎谷だったが、今日は横柄で不機嫌そうな雰囲気。こんな彼は、初めて会った引き継ぎの日以来だ。  うつむきがちに状況を説明したあと、上目づかいに様子をうかがった。  椅子にふんぞり返って座った彼は、窓の外を眺めながら私の話を聞いていた。 「やっちゃったねぇ」  話を聞き終え、最初に発した言葉がそれだった。 「うちは価格以上に納期にうるさいんだよ。聞いてんでしょ?」  いきなりジロリと見据えられ、 「はい」  私は身を縮めた。 「せっかく頑張ってもらってんのに、イエローカードだよなぁ」  人ごとのように呟く言葉が、よけいに不安をあおる。 「申し訳ありません」私は神妙な面持ちで頭を垂れた。「このお詫びには、あらためて上司を連れてお邪魔したいと……」  言いかけた言葉を、 「そういうのやめてくれないかなぁ」  彼は不快そうにさえぎった。 「え?」 「え、じゃないよ。問題が起こったら上を連れて来て頭を下げればいいわけ?」 「いえ、けっしてそういうわけでは…」 「だったら上司を連れてどうこうとかやめてくれる?こっちはアンタを信頼して取引してんだからさ。今日だって松野じゃなくて、まずは直接私に連絡するのが筋じゃないの?」 「はぃ……」  私は神妙な面持ちで視線を伏せた。  始まったと思った。  受付に虎谷ひとりが現れたときから、こうしてネチネチといびられることは覚悟をしていた。何を言われようとひたすら頭を下げ続けるしかない。 「で、何日遅れるって言ったっけ?」 「二日です」 「二日かぁ、たった二日くらい何とかならないの?」 「申し訳ありません。手は尽くしたのですけど…」 「二日よ、たった二日ぁ」  思った通り、一度説明したことを何度も蒸し返すようにグチグチと尋ねてくる。 「だいたい、うちはオタクの会社じゃなくてもいいんだよね。分かってる?設計部には、この発注についてはコスト優先の了解を取ってるし、他にも条件のいい所はいろいろあるんだからさ」  やがて話の矛先は納入価格に向かった。 「それにさぁ、今はおさまってるけど、品質面でも前にずいぶんトラブったのは聞いてるよね?」  そればかりか、過去のトラブルにまで遡りうちの会社の失態をあげつらった。  こうやってしばらくの間、悪態をついた虎谷だったが、さすがに疲れてきたのか少しずつ話のペースが落ち始める。  そして最後には黙り込み、大きな溜息をついた。 「ま、今後はこういうことが無いようにしてもらわないとね」  ひととおりのガス抜きが終わったせいか、口調は少しだけ穏やかになってきている。これでやっと解放されそうだ。私は心の中で安堵の吐息をもらした。  とはいえ、ここでそんな素振りを見せるわけにはいかない。 「はい、これからは……」  泣きそうな顔をして、ちょっとばかし声を詰まらせてみせた。  すると、言い過ぎたと思ったのか、 「こっちだって朱美ちゃんにこんなこと言いたくはないさ。ただこれも仕事だからね」  急に柔らかな口調で彼は言った。 「虎谷課長が仕事に厳しい方だということは分かってます。ただ、課長にはいろいろよくして戴いているのに、今回はこんな事になってしまって、私…」  これ幸いとばかりに、ついでにヨイショもしてみた。  すると、 「分かってんならいいけどさぁ」  口もとが緩む。  だいぶ機嫌がなおったみたい。  そればかりか、 「まあ、朱美ちゃんが頑張ってるのは認めるしね。今回はそれに免じて上への報告はやめておくからさ」 「本当ですかぁ?」 「ああ、特別にね」  ラッキー、と飛び跳ねたい気持ちだった。  正直ここまでの展開は予想していなかった。つきあいづらい虎谷を嫌がらず、やり過ぎと思うくらい持ち上げてきた成果がこれだ。  やっぱり営業なんて人間関係がすべてだ。このときはまだ、私はそう思っていた。
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