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この日、あたしにしては珍しく長く残業をした。
けして、昼間ぼーっと外を眺めていたからなんかじゃない。
専務の急な海外出張が決まり、割り込ませた先のスケジュール調整に難航したこともあって、予定していた仕事が終わらなかったからだ。
ひととおりの仕事を終わらせると、机周りの整理をして更衣室に向かう。
更衣室が混み合うピークは、終業のチャイムが鳴ってから30分後くらいだ。あたしが普段利用するのも、この時間帯が多い。しかし今日は、残業したせいもあってピークは過ぎたあとみたい。更衣室には人影は無かった。
ロッカーの前に立ち、鍵を開けようとしてふと見ると、三つ先の扉が少し開いているように見えた。
朱美さんのロッカーだ。
「開けっ放しで帰っちゃったのかな?」
そう思って近づいてみた。
やっぱり薄く開いている。
閉めておいてあげようとノブに手をかけると、扉の横から、赤い鳥の羽のようなものが顔をのぞかせているのに気がついた。
「なに?」
首をかしげ、顔をよせた。
やっぱり羽根だ。
勝手に見るのは悪いと思ったけど、挟んだまま閉めることもできない。はみ出ている羽根を押し込もうとさらに少し扉を開けると、突然それが飛び出してきた。
慌てて手をさしのべたけどすでに遅く、足下に転がり落ちる。
それは、あざやかな真紅の羽根を折り重ねた棒の形をしていて、片側には竹の柄がついていた。
「これって……」
びっくりして身をかがめ、覗き込んだ。
床に転がったそれの正体は扇子。それも真紅の羽根扇子だった。
おそるおそる拾い上げ、少しだけ開いてみた。
竹の柄には、凝った彫り柄がされ、真紅の羽根の先端にはさらに色鮮やかな孔雀の羽根があしらわれている。少し古い感じはするけど手の込んだ扇子だ。
「ジュリ扇?」
見つめながら呟いた。
その大きさといい派手さといい、それはまさに、あの有名な扇子に違いない。
かつて、ボディコン・イケイケのお姉さまたちが、ジュリアナ東京のお立ち台で、振り回し踊り狂った伝説の扇がいままさにこの手の中にあった。
「JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦」、いわゆるジュリアナ東京は、ウォーターフロントと呼ばれていたころの芝浦で隆盛を誇った大型ディスコだ。オープンはまさにバブルも崩壊しようとする1991年、わずか3年後、1994年には多くの逸話を残して閉店している。
ユーロビートに乗り、露出度の高い衣装で踊り狂う女性の姿は、バブルに狂喜した日本社会の象徴として取りざたされることも多く、知らない人は少ないだろう。当時小学生だったあたしだって聞いたことくらいはあるし、ジュリ扇だって持って踊っている姿は何度も目にしている。
ただ、そんなジュリ扇だけど、こうして実際に手に取ってみるのは初めてのことだった。
しげしげと眺め回しながら、いっぱいに広げてみた。真紅の羽根ですら派手なのに、その先端を飾る孔雀の羽根がそれに拍車をかけている。ギリギリ露出の衣装に身を包み、お立ち台に上ってこれを振ったら、さぞや目立ったに違いない。
それにしてもと、あたしは思った。
いったいなんでこんなものが、朱美さんのロッカーに入っているのだろう。
ジュリアナ東京が閉店したのは、あたしが小学校六年生のころだ。となると、五つ年上の朱美さんは高校生ということになる。まさかとは思うけど、すでに高校時代にジュリ扇を手に芝浦に通っていたというのだろうか。
いや、そんなことはありえない。だって、朱美さんの実家は水戸なのだ。高校は地元の学校に通っていたと聞いている。女子高生が特急に乗ってジュリアナに通っていたなんて、どう考えてもありえない。
それとも、ひょっとして、
「歳をごまかしてたりして……」
そんなことまで考えたりすると、ちょっと怖くなった。
この扇子には、朱美さんのとんでもない秘密が隠されているのかも。
すると、
「なにやってんのよ~」
突然、背後で声がした。
「きゃっ」
あたしは思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
振り返ると、朱美さん本人が立っている。
「やだ、もぉっ、驚かさないでください」
泣きそうな声で言った。
「勝手に驚いたのはそっちでしょ。あ、ちょっとぉ、人のロッカー覗かないでくれる」
あたしが手にした扇子を見つけると、顔をしかめた。
あたしは慌てて首を振った。
「覗いてたんじゃなくて、扉が開いてたから閉めようとしたんです。そしたら、これが転がり落ちてきて」
扇子を閉じ、おずおずと差し出す。
「あ、そ」とかあっさり言いながら、彼女はあたしの手からそれを受け取った。
「帰ろうとしてたんだけど、メールを入れなきゃいけないのを思い出したのよね。いちど机に戻ったんだけど、ちゃんと閉まってなかったのかな」
ロッカーを開けてジュリ扇をしまい込んでる。なんとなく、大事なものを扱うような仕草だ。
「それって、あのジュリアナの扇子ですよね?」
こわごわ聞いてみた。
「そうよん」
さらりと答えが返る。
「なんで、そんなものがここにあるんです?」
「なんでって……」
「ひょっとして朱美さんって、そこの常連だった、とか?」
続けて尋ねると、「はぁっ?」と彼女は甲高い声を出した。
「あんたねぇ、ジュリアナ東京っていったら、あたしが高2の夏に閉店したのよ。当時、田舎で高校生やってたあたしがなんで常連なのよ」
「それはそうなんですけど……」
「惚けたこと言ってんじゃないわよ。だいたい、どこの世界に、お立ち台でジュリ扇振ってる女子高生がいるってのよ」
失礼しちゃうわ、と言わんばかりだ。
朱美さんならひょっとしてと思ったけど、さすがにそれは違うらしい。
「だったら、どうしてそんなものを持ってるんですか?」
「もらったからに決まってるじゃない」
「もらったって、誰にですか?」
続けて尋ねると、朱美さんの動きが止まった。
まじまじとあたしの顔を見てる。
そして、ちょっと考えた末に、言った。
「浅倉ってさ。八木沢さんの話って聞いたことある?」
「八木沢さんですか?」
首をかしげた。
「知らないか。ま、しかたないわね。浅倉が入社する十年以上前の話だし、最近じゃ、あのころのことを話すのはタブーっぽい雰囲気があるし」
どうもその人は、昔うちの会社にいた人みたいだ。
「どういう人なんですか?その八木沢さんって」
「あたしたちの大先輩よ。どういう人かをひとくちに言うと、そうねぇ、呼び名はいろいろあるんだけど、『伝説の御局(おつぼね)OL』ってのがいちばんピッタリくるかな」
「はぁ」と、あたしはうなずいた。
なんかすごいネーミング。
もっと詳しく知りたい気もするけど、その呼び名を聞くと、これ以上に関わり合いになりたくない気もする。
しかし、そんなあたしの気持ちなど、朱美さんには伝わっていないようだった。彼女はほかに人のいない更衣室を見渡して、言った。
「ここじゃまずいわね。時間あるんでしょ?飲みに行くわよ」
「えっ、でも…」
とっさに、どう断っていいか言葉が思い浮かばない。
そのうえ、
「ちょうどよかった。浅倉には、そろそろ話しておこうと思ってたから」
真面目な口調で言われると、なおさら断りようがなくなってくる。
結局その後、ふたりは連れだって更衣室をあとにしたのだった。
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