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朱美さんが選んだお店は、会社から歩いてちょっとの場所にある串揚げ屋さんだった。
カウンター席だけのこぢんまりとした店で、オーダーした串を目の前で揚げてくれる。たしか以前にも一度来たことがあって、また来たいねと言っていたお店だ。
並んでカウンターに座ったふたりの前に、オーダーした中生が届く。
意味のない乾杯のあと、朱美さんは、ぐっと大きくジョッキを傾けた。
「ふぅぅ…」
風船から空気が抜けるような吐息とともに、ドンとカウンターにジョッキを置いた。
「やっぱ、労働のあとは生ビールよねぇ」
とか言ってる。
なんか最近の朱美さんって、オヤジっぷりに磨きがかかった気がする。
上目づかいにそんな様子を眺めながら、あたしも生ビールをひとくち飲んだ。
そして言った。
「で、話って何なんですか?」
「話?」
朱美さんは、きょとんとした顔をしてあたしを見た。
「だから、私に話しておくることがあるって…」
「なんだっけ?」
「あのですねぇ」勘弁してよと、あたしは思った。「扇子を誰からもらったのかを尋ねたら、伝説の人の話を知ってるかって聞いてきたんですよね?そのあとここじゃまずいって、話しておくことがあるからって、ここに来たんじゃなかったんですか?」
唇を尖らせて言うと、
「伝説の人じゃないわ。『伝説の御局OL』よ」
訂正されてしまった。
「だからぁ」焦れた声で言った。「その『伝説の御局OL』の話をするんじゃなかったんですか?」
ホントにもう。大丈夫なのって思っちゃう。
「そう、八木沢さんの話よ。浅倉は知らないかもしれないけど、彼女ってすごい人だったんだから」
「うちの会社の人だったんですよね?」
「総務課に勤務していて、ちょうど今のあたしと同じ仕事をしてたの」
「社内の庶務さんの元締めみたいな仕事ですね」
あたしが言うと、「そうよ」とあっさり認めた。いつもだったら、「やくざの元締めみたいに言わないでよ」とか顔をしかめられるのに、今日は勝手が違う。真面目な顔で「あの人には、たくさん逸話があるのよ」とか言って、お通しのつぶ貝をようじで突っついてる。
「逸話ですか?」
「そう。週に8回合コンをこなしたとか、大手のディスコはどこも顔パスだとか。ま、ホントかどうかはわからないけど、いろいろあるのよ。その一方では会社でもすごくて、面倒見がよくて頼りになる人だから社内の女の子の人望は抜群。いろんなところから噂話が舞い込んでくるもんだから、それはもう会社の隅から隅まで、ありとあらゆることを知ってたんだって」
どこかで聞いたような話だ。
ディスコをカラオケに置き換えれば、まんま朱美さんに当てはまる。
「ひょっとしてその人って、朱美さんのお姉さんかなんかですか?」
試しに聞いてみた。
すると、朱美さんは、なんかものすご~く嫌そうな顔をした。
「なによそれ?」
「いえ、なんとなくなんですけど…」
「んなわけないでしょ。だいたい、あたしの兄弟は上も下も男だって、いままで何度も話してるじゃない」
「ですよね」
首をすくめた。
あのジュリ扇はその八木沢さんが使っていたものなのだそうだ。
それはわかった。
ただ、朱美さんの話を聞いていて、不思議に思ったことがある。
「でもですよ。そんな逸話のいっぱいあるすごい人なのに、どうして誰も話してくれなかったんでしょうね。そんな人がいたなんて、私だけじゃなくて、ほかの子だって知らないと思うんですけど」
「その辺は、いろいろと微妙なのよ」
なんとなく歯切れが悪い。
「どうして微妙なんですか?」
「どうしてって、いまでは逸話に触れるのはタブーだからなのよね。ま、本人はあんまり気にしてないらしいんだけど、どこで誰が聞いてるかわからないし。かげでふれ回ってるとか思われたらまずいじゃない」
「タブーなんですか?」
「そ、まぁ、社長夫人になってからは、少しは大人しくなったってこともあるんだけどさ」
「えっ?」
朱美さんの言葉に、あたしはクルリと彼女を見た。
「今、なんて?」
「いま?少しは大人しくなったって…」
「違います。その前」
「ああ、社長夫人になってからはってこと?」
なに驚いてるのよって顔をしてる。
「社長夫人って、ひょっとして堂本社長の?」
総務部の大先輩で社長夫人なんていったら、ひとりしか思い浮かばない。
「なによ。だから最初から言ってんじゃない。八木沢摩耶さん、堂本社長の奥さんよ」
あっけらかんと言われ、
「え~っ!」
あたしは目をまん丸にした。
旧姓なんかで話さないで欲しい。
なんと、『伝説の御局OL』とは、今日言葉をかわしたばかりのあの摩耶さんだった。
その昔、総務部在籍時の摩耶さんは、当時で言うところのワンレンボディコンのイケイケギャルだったのだそうだ。それが、企画課長だった今の堂本社長と結婚して、最終的に社長夫人にまで上り詰めた。しかし、朱美さんいわく、事はそんな単純なものではないのだそうだ。
「八木沢さんって、結婚した相手が社長になったから、自然と社長夫人になったと思うでしょ?ま、普通はそうなんだけど。でも彼女の場合は違うのよ。堂本氏はあの人と結婚したから社長になれたんだって。これは彼女を知る人の間では常識なんだから」
「どういうことですか?」
「あの人がそれだけすさまじい情報力を持ってたってことよ。浅倉だって知ってるでしょ?女の子の噂ってバカにならないんだから。それにさ、うちの会社って社内結婚が多いじゃない。いまだに当時のつながりを通じて、あちこちの奥様たちから社内の情報が集まってくるらしいの。堂本社長誕生には、そのつながりと情報力がすっごく重要だったわけよ。それが無ければ、社長就任はありえなかったくらいにね」
「はぁ」と呆気にとられてうなずいた。
なんか、想像を絶する世界の話だ。
「で、あの扇子なんだけどさ」
「はい」
「あれはたしかに彼女の物だったんだけど、あたしが直接貰ったわけじゃないのよ」
「どういうことですか?」
「そもそも、貰ったっていうのは正しくないわ。あたしはただ預かってるだけ。そして、本当に浅倉に話したいのは、ここから先のことなのよ」
朱美さんの口調が、どこか真剣になった気がして、あたしはコクリとうなずいた。
「あたしと光樹の馴れ初めは、前に話したわよね?」
「はい、たしかふたり同時に営業部から異動してきて、ある日、布施課長から飲みに誘われて、でしたよね?」
そこから始まって、延々とのろけ話を聞かされたのだ。忘れるわけがない。
「うん、まぁ、それはそれであるんだけど。ただ、それってエピローグみたいなものなのよね」
「エピローグ?」
「そう。映画なんかでエンディングの音楽が流れる中、バックの映像でやっと結ばれた恋人同士が抱き合ってたりするじゃない。ま、あんな感じよ」
「はぁ」と、あたしは間の抜けた相づちをうった。
映画館のスクリーンに映る朱美さんと布施課長の抱擁シーンを思い浮かべてみた。笑っては悪いと思いながらも、口元が綻んでしまう。
とはいえ、話すというのだから聞かないわけにいかない。
のろけ話に覚悟を決めて、話し始めるのを待った。
やがて、遠い目をして彼女は話し始めた。
まだ、あたしが入社する前の話。朱美さんと布施課長が営業部にいたころの話だ。
そしてそれは、あたしの想像を超えた、追憶の恋物語だった。
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