第一話  

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  第一話  

 今を遡ること6年前の冬。  巷では冬ソナをきっかけに韓流ブームが到来。アテネ五輪で金メダルを取った北島選手が「チョー気持ちいい」とさけぶ一方で、長澤まさみちゃんが世界の中心で愛をさけんでいたころ。  私、田代朱美は花も盛りの25歳。営業部に所属し、仕事に飲み会にとチョー忙しい毎日を送っていた。  そんなある日。あわただしい一週間が終わろうとする、金曜の夕暮れ時だった。  技術部での打ち合わせを終え、営業部に戻ろうとしてふと前を見ると、廊下の向こうに宮脇睦美の姿が見えた。帰り支度を終え、更衣室から出てきたところだ。 「宮脇ぃ」  早足で近づく。  声に気づいた睦美は、立ち止まり、振り向いた。 「早いわね。もう帰っちゃうの?」  尋ねると、 「うん、ちょっとね」  彼女は首を傾げて明るく微笑んだ。  黒のニットにシルバーのネックレス、花形カットのオフホワイトのスカートという装いは、ほどよくフェミニンで大人っぽいコーデ。しっかりめに化粧も直してる。 「ひょっとして、デート?」  頭から足先まで見回したあと、ジト目で言った。 「まあね」  首をすくめてる。 「相手は誰よ?」 「誰って……」 「ひょっとして、前の薬屋の彼氏とよりを戻したんじゃないでしょうね?」  睦美は、ほんの少し前まで某製薬メーカーの彼氏とつきあっていた。その男が浮気したとかで、揉めまくって別れたのはついこの間のこと。ピーピー泣きながら愚痴をこぼす彼女に朝までつきあわされてから、まだ一ヶ月ちょっとしかたっていない。 「違うよ。あんないい加減な男、もうこりごり」 「だったら誰よ」 「ちょっとね。まだ微妙なところなんだ。今度話すわ」  ふぅんと唇を尖らせた。  この様子だと、ちゃっかりどこかで新しいのを見つけたらしい。 「せっかく飲みに行こうと思ってたのにぃ」 「ごめん。こんど埋め合わせるから」  睦美は小さく片手で拝むポーズをとった。  睦美は営業推進部に所属している同期だ。同じ営業本部所属のため顔を合わせることも多いし、気が合って遊びに行くことも多い。  軽い子ではないのだけど、いかんせん惚れっぽいところがあって、たびたび新しい恋に目覚めては痛い目にあってを繰り返している。  本人は男運が悪いとなげいているが、私に言わせれば選ぶ相手を間違ってるだけのこと。追いかけられるより、追いかけるのが好きな子がいるけど、睦美はまさにそんなタイプなのだ。加えて、身勝手な男の態度にクラッとしてしまうところは何度言ってもなおらない。  前の男のときなどは、相手のアパートで別の女と鉢合わせたらしく、しばらく男はたくさんだとか言っていたくせに、少しも前と変わった様子がない。 「ま、こんどは泣かされないように、じっくり相手を選ぶことね」  じゃあねとばかりに、ひらひら手を振った。そしてオフィスに戻ろうとすると、 「あ、そういえば」  いきなり、彼女が言った。 「見たよ。1月の営業月報」 「月報?」  思わず振り返る。 「いきなりトップに立ったみたいじゃない」 「ああ、そのこと」  素っ気なく答えた。  睦美が言っているのは、営業の個人成績を比較したランキングのことだ。毎月の成績が発表され、四半期ごとに上位3人が表彰されることになっている。 「さっすが朱美。あんなの見せられたら、男性陣は形無しね」 「まだわかんないよ。今期は年度末だし」  そうは言ったものの悪い気はしなかった。  月報はまだ見ていないけど、1月は大型受注が入ったし、おそらくトップに立つのではと思っていた。たぶん2位との差はかなりあるはず。例年1~3月は混戦になるのだけど、四半期ごとの短期勝負にスタートダッシュは重要だ。 「ひょっとして、今回はいけるんじゃない?」 「どうだろ。ま、せいぜい頑張るわ」  気のないふりをして、ふたたび手を振り睦美とは別れた。  入社してもうすぐ四年。その間に2回、私は営業成績優秀者として表彰されている。つまり、ランキングの上位3名に2度入ったということだ。  うちの会社は女性の営業が少ないこともあり、女性が営業成績で表彰されるのは私が初めてだったらしい。それがわずか数年で2度も表彰されたのだから、否が応でも社内の注目を集めることになる。今では社内のトップセールスのひとりとして、私の名前が挙がるようにまでなっていた。  しかし、その呼び名は単純に受け入れがたいものがある。なぜなら、私は本当の意味で社内のトップに立ったことがないからだ。さっき睦美が『今回は』と言ったのはそのことを指している。2度の表彰はすべて第2位。それも、トップとはかなりの差をつけられての2位だった。いずれの時も、あの男が私の前に立ちはだかったのだ。営業成績優秀者の常連、現在まで5期連続トップの座に座り続けているあの男が。 「あ、いたいた。どこいってたんですか?」  オフィスの机に戻ると、矢野が声をかけてきた。  矢野武雄は入社一年目の新入社員だ。私が教育係をおおせつかっている。  M大柔道部出身。お世辞にも器用なタイプじゃないけれど、気合いと体力だけは他の新入社員を圧倒していて、いちおう有望新人ということになっている。ま、体で仕事するタイプとして、だけど。 「ちょっと、技術部にね」  言いながら机に座った。 「電話入ってますよ」  横から言われ、 「あ、うん」  机の上に裏返しになった伝言メモを拾い上げた。  現在商談中の物件について、連絡が欲しいと書かれている。たぶん、来週出す予定にしている見積りのことだ。今日の午前にさんざん打ち合わせたくせに、まだ何か言いたいことがあるらしい。  私は小さく溜息をついて、伝言メモを手放した。メモはひらひら揺らめきながら、机の上へと落ちていく。 「どうしたんですか?」 「ん?べつにぃ。今日はもういいかなって思って。これ、来週電話するわ」  落ちたメモを遠くへ押しやる。 「いいんですか?」 「まぁね。だいたい言ってくることはわかってるし。くどいのよね。今日だって、打ち合わせが長引いたせいでお昼食べそこねちゃったんだから」 「昼抜きですか、そりゃつらいスね」 「そうなのよ。もぉ、お腹ペッコペコ。ま、そういうことだから……」  飲みに行くわよ、と椅子を回して矢野を見た。  すると彼は、あからさまに嫌そうな顔をした。 「また、ですか?」 「またってなによ?」 「だって、昨日だって……」 「昨日はカラオケでしょ。歌うついでに軽く飲んだだけじゃない。おとといは、会議で遅くなったから、ご飯食べたついでに軽く飲んだだけだし。そうやって考えれば、飲みに行くのなんか三日ぶりじゃない」 「ついでに軽く飲んだって、どこが……」 「うるさいわね。グズグズ言ってないで、早くメンツ集めて来なさいよ」  しっしっと手を振って矢野を追いやった。体育会系のくせに先輩に口答えするなんてもってのほかだ。  そもそも、私だって、好きこのんで新人社員を連れ回してるわけじゃない。毎日毎日仕事に追われ、予定が立たないから友だちとの約束は入れられないし、参加するはずだった合コンだって、急な見積と会議で2回続けてすっ飛ばしてるのだ。せめて飲みにでも行かなきゃストレスがたまってしまう。  矢野が飲みのメンツを集めている間、私は机のパソコンでネットを見て過ごした。  今日の朝は、昨日のお酒が残っていたせいもあって、ポカリ一本しか飲んでいない。そのうえ、お昼を抜いてずっと外回りだったのだから、さすがにもう限界だ。お腹がすいてなにもする気がおきない。  もっとも、会社に戻る前なら食べる時間はあった。それをあえて我慢したのは、夕方近くになって何か食べたりしたら、一杯目のビールが美味しくないからだった。  ほおづえをつきながら、ショッピングサイトを眺めていた。  すると、背後で人の気配がした。 「ただいま」  低い声が聞こえ、同時に鞄を置く音がする。 「お帰りなさい」  ほおづえを解いて顔を上げると、案の定、そこにはあの男が立っていた。  営業成績優秀者の常連にして、5期連続第1位という記録更新中。名実ともにうちの会社のトップセールスであるその男とは、私の真後ろの席の住人。布施光樹だ。
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