第二話  

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 外回りから戻ってきた布施主任は、後ろの席でパソコンを立ち上げ始めた。  これから仕事を始めるらしい。  ホワイトボードに記された彼の予定は、たしか直帰になっていたはず。それが、さあこれから飲みに行こうとしているところに帰ってくるなんて、こっちの都合も考えてほしい。  私について言えば、お昼もぬいて仕事してたわけだし、こんな時間から飲みに出かけたとしても負い目を感じる必要などない。それはわかってる。わかってはいるんだけど、この男が仕事をしているというのに、お気楽に飲み歩いてるなんて思われるのだけは悔しい。  どうしてくれよう、とか思っていると、不意に後ろから声が聞こえた。 「布施です」  チラリとそちらを見た。 「いま少しよろしいですか?」  携帯で話してる。 「ジャニーズ工業の件ですが、なんとか今期いけそうです。ええ、思った通り、中国への出荷が伸びはじめて急に増産を決めたらしくて…」  相手はたぶん外出中の谷垣部長だ。  その声を、私は、耳ダンボ状態で聞いていた。  ジャニーズ工業といったら、いま彼が抱えている案件の中でもひときわ大きな案件のはず。前任者から引き継いだ二年越しの案件で、前に二度ほど受注直前までいったものの、設備投資に慎重な社長の承認がおりなくて、そのつど延期になったと聞いている。二度も足踏みした案件なのだから、どうせ今回も延期になるんだろうけど、万が一にもまるごと取れるようなことがあれば、彼の連続トップに確定フラグが立ってしまう。 「はい、それは大丈夫です。今度こそ延期はないと思います。今回は社長の指示で検討を始めてますから」  その言葉を聞いて、まずい、と私は思った。  慎重を絵に描いたようなこの男がここまで言うのだ、今回は確度がかなり高そうだ。となるとあとは受注の規模だ。まだ、まるごと取れると決まったわけじゃない。規模が縮小になることだってありえるし、今期は一部だけ発注という可能性もある。  心の中であれこれ考えていると、お気楽な足取りで矢野がもどってきた。  ちょうど布施主任が携帯を切ろうとしているときだった。 「あ、布施さん、帰ってたんですか」  彼に気づいた矢野が話しかけた。 「ああ、直帰のつもりだったんだけど、いろいろあってね」  答える声がする。 「ちょうどよかった。みんなで飲みに行くんですけど、布施さんもどうですか?」 「今からか?」 「はい、意外と集まりがよくて、10人近くは行きそうなんですよね。布施さんも、もし来れそうなら席取っときますけど」 「いや、悪いけど、俺はこれから見積りを作らなきゃならならないんだ。待たせて行けなくなっても悪いしな。今回は遠慮しておくよ」 「そうですか、大変なんですね」  私は、そんなやりとりを背中で聞きながら、「少しは頭を使いなさいよ」とか思っていた。  直帰の予定を変えてわざわざ帰ってきたんだから、飲みに誘っても来ないことくらいわかりそうなものだ。そればかりか、言うに事欠いて「大変なんですね~」なんて、それじゃ彼をのこして飲みに行くあたしが、大変じゃないみたいじゃない。  このとき、私のイライラはピークにたっしていた。  布施主任と話し終えた矢野は、続いて私に声をかけてきた。 「朱美さん、メンツ集まりましたけど、場所どこにします?」  チラリと振り向き、ジトリと見上げた。 「何のこと?」  そっけなく言った。 「何のことって、場所ですよ。飲みに行くとは言ったけど場所がまだ…」 「悪いけど!」言葉をさえぎって言った。「あたしもこれから見積り作らなきゃいけないんだ。待たせて行けなくなっても悪いし、今回は遠慮しておくわ」 「はぁ?」と、矢野は間延びした声を出した。「なに言ってるんですか。朱美さんが飲みに行くって言うから…」 「あらやだ、こんなところに伝言メモが」  そんな言葉を無視して、机の端に押しやっていた伝言メモを取り上げた。 「いけなぁい、電話しなくちゃ」  受話器を取り上げ番号ボタンを押す。そして、不満いっぱいの顔で立ったままの矢野の方へと、シッシッと手を振ってみせた。かわいそうな気がしないでもないが、状況が大幅に変わったのだ、いまこの状況で飲みになど行けるはずがない。飲み会は10人近く集まったらしいし、あたしひとりが行かなくてもじゅうぶん盛り上がるに決まってる。  ふくれっ面で帰って行く矢野を横目に見ながら、私はクドクド長い電話の相手を終えると、見積りの作成に取りかかった。  その場にいた部のメンバーのほとんどが飲みに行ってしまったせいで、しばらくすると私たちの周囲の席には誰もいなくなった。背中合わせに座った私と、布施主任が叩くキーボードの音だけが、妙に大きくフロアに響いてる。  やがて、フロアの向こうがわに残っていた営業二部の人たちの姿も消え、残るのは私と布施主任のふたりになったころ、背中の後ろで椅子がきしむ音がした。  彼が立ち上がった音だ。 「週末だってのに、遅くまで頑張るんだな」  立ち上がり際に話しかけられたけど、 「べつに」  とだけ答えた。  話したくないというより、話す気力がおこらなかったのだ。  彼はプリンターへと向かい、数枚のプリントアウトを手にもどってきた。そして、席に座った直後、ふたたび椅子がきしむ音がした。 「これ、田代がプリントしたんじゃないのか?」  振り向くと、彼は椅子に座ったまま、半身をこちらに向けて一枚の紙をかざしている。ついさっき、プリントしたはいいが、取りに行く気が起こらずそのままにしていたプリントアウトだ。 「あ、すみません」  立ち上がって受け取ろうと椅子を回した。  反動をつけて腰を浮かした。  そのときだった。  私は、ヘナヘナと床に崩れ落ちてしまった。  体に力が入らない。 「おいっ!どうしたんだよ」  気づいた布施主任が驚いた声を上げた。 「ぁ、いぇ、だいじょう、ぶ…」  あわてて立ち上がろうとしたのだけど、それもかなわず、あえなくその場にへたり込む。  彼は椅子を下り、ぐったりとした私の体を抱え起こした。 「おいっ、田代っ!」太くたくましい声がフロアに響き渡る。「待ってろ、いま救急車を呼んでやるからな」  内ポケットから携帯を取り出しボタンを押そうとする彼に、私は手を伸ばしながら首を振った。 「だいじょうぶです。ただ、ちょっと…」  一瞬、躊躇したけど言わないわけにはいかない。  このまま救急車を呼ばれでもしたら、それこそ大恥だ。 「お腹が減りすぎて、力が…」  目をそらしながらポソッと言った。  次の瞬間、彼の腕の中で、大きな音をたててお腹が鳴った。
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