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第三話
コトリとテーブルに缶が置かれ、私はけだるく顔を上げた。
フロアの自販機で買った缶コーヒーだった。ミルクたっぷり、濃厚な味わいが売りのカフェオレタイプ。
「こんなものでも、少しは腹の足しになるだろ」
ソファの横に立った布施主任が言った。
ぶっきらぼうな口調はあいかわらず。「腹の足し」なんて、女の子にその言いかたはないんじゃないとは思ったけど、いまはそんなことを言えた状況じゃない。なにしろ、空腹のあまりオフィスの床にへたりこみ、彼を大あわてさせたのは、ほかならぬこの私なのだ。
教師にしかられた教え子みたいに、上目づかいに彼を見た。
「すみません」
とりあえず謝罪の言葉を口にした。
恥ずかしいというか、情けないというか、ほかに言葉が思い浮かばない。
いま私は、オフィスのすみに置かれた応接セットにいた。
ちょうどこのころはオフィスの分煙化が厳しくなった時期で、デスクでの喫煙が禁止されたかわりにお古の応接セットを持ち込んで、喫煙コーナーとして使っていた。布施主任に半分抱えられようにして運ばれた私は、そこのソファに座らされていたのだ。
「横にならなくていいのか?」
彼は、テーブルをはさんだ前のソファへと腰を下ろした。
「だいじょうぶです」
上目づかいに言ったあと、「たぶん」とちいさくつけ足した。
ついさっき感じたふらつきが軽い貧血だとしたら、彼の言うとおり横になったほうがいいのかもしれない。ただ、ふらふらした感じは治まりつつあったし、気分の悪さもそこまでではない。そしてなにより、腹ぺこのあげくソファでのびてる情けない姿なんかを見られたくはなかった。
「ならいいけどな」
彼は手に持っていたもう一本の缶コーヒーのプルタブを開けた。
ブラック無糖と書かれた缶が、プシュと小さな音を立てる。
それを見て、私も、もらった缶コーヒーを手に取った。
プルタブに指をかけ開けようとする。しかし、指先に力が入らず上手く開けることができない。
「やだ、なにこれ?硬い…」
じれた声を出した。
すると、布施主任が手を伸ばしてきた。
「貸してみろ」
言われて手渡すと、彼はいともたやすくプルタブを開けてくれた。
「ほら…」
ふたたび差し出された缶を受け取り、私は大きなためいきをついた。
「なんか、ショック」
「なにが?」
布施主任はソファに深く座りなおし、缶コーヒーをひとくち飲んだ。
「あんなふうに倒れたこともですけど、こんな缶ひとつ開けられないなんて…」
「しかたがないさ。体調のよくないことは誰にでもある」
「でも、あたし、体力には自信があったんですよ。小さなころから剣道をやってたから握力だってあるし」
「そうなのか?」
「そうですよ。真夏の打ち込み稽古のときなんか、まわりの男の子がつぎつぎと音を上げるなか、最後まで打ち込みを続けてたりとかもしたくらい、スタミナには自信があったのに。ちょっとくらいご飯をぬいたからって、こんなになっちゃうなんて…」
あれは中学校のころの話だ。
私の父は水戸で剣道の師範をしている。町の道場で教えているほかに、県警の道場や地元の大学での指導も行っていて、それなりに名の知れた剣道家なのだ。
そんな父のもと、私は、物心ついたころにはもう竹刀を握らされていた。思い出せるいちばん古い記憶といえば、父の教えていた道場のすみで、ひとつ上の兄とふたり、おもちゃの竹刀を振り回していた光景だったりする。
その後三つ下の弟も加わり、私は、高校を卒業するまでのあいだ、剣道一家と呼ばれる家族の中で育った。やがて、推薦をもらってH大の剣道部に進み、卒業を機に竹刀を置いたのだけど、地元の大学に進んだ兄と弟は、市役所と県警に勤めながら、今も稽古にいそしむ毎日を送っている。
「真夏の剣道っていうのも、たいへんそうだな」
「そりゃあもう、たいへんなんてもんじゃないですよ。熱気のこもった道場で、防具をつけて打ち込みなんかしたりしたら、へたなサウナよりよっぽど暑くて苦しいんですから」
おどけた口調で言うと、
「そうかもな」
布施主任は小さく口もとをゆがめた。なんか笑ったみたい。
あらら、と私は思った。
この人が異動して来てもうすぐ一年になるけど、笑ったところなんて初めて見たかも。
「布施さんは、なにかスポーツやってたんですか?」
調子にのって探りを入れてみた。
すると、
「中学校までは野球、高校はラグビーをな」
いがいにも話にのってきた。
「ラグビー、ですか?」
「ああ、俺の高校は野球の名門だったんだ。そんなところに入っても、俺の力じゃレギュラーは無理だと考えて転向したのさ。ラグビーは高校からはじめるヤツがほとんどだし、部員が少ないわりにレギュラーの数も多いしな」
「何人なんですか?」
首をかしげて聞いた。野球は少しわかっても、ラグビーのルールなんて知らない。
「野球は9人、ラグビーは15人だ」
「6人も多いんだ」
「ああ、お得だろ?」
今度ははっきりと笑った顔をした。なんと、この鉄面皮でも笑うらしい。そのうえ、いつになく雄弁だったりもする。
「けっきょく全国には行けなかったが、これでも関西じゃ、ちょっとは名の知れたスタンドオフだったんだぜ」
「すたんどおふ?」
「ああ、フォワードとバックスの間にいて試合をつくる司令塔のポジションだ」
「まん中にいる司令塔って、それってミッドフィルダーじゃないんですか?」
「なに言ってんだ。そいつはサッカーだろ」
おおっ!と私は思った。今度は声をあげて笑ってる。
つられてあははと私も笑った。
「ま、それはともかくだ」言葉をあらためて布施主任は言った。「どんなに体力に自信があったにしても、無理はよくないな」
私はうなずき、上目づかいに彼を見た。
「どんなに高性能な車だって、ガソリンがなけりゃ走らない。それと同じことさ。今日は昼ぬきだったのか?」
「はぁ。ただ…、お昼だけじゃなくて、朝もなんですけど」
「朝も?てことは、今日一日なにも食べてないってことか?」
「ポカリは飲んだんですけどね。朝」
「それじゃあ、ひっくり返るわけだ。どこかぐあいでも悪かったのか?」
「べつにぐあいが悪かったとかは……」
もごもごと言葉をにごらせた。朝をぬいたのは二日酔いだったからだけど、それを言うのも恥ずかしい。
「だったらどうして食べなかったんだ?」
「それは、いろいろあって……、ダイエットとか……」
とりあえず、そうごまかした。
仕事が忙しくて昼をぬいたのはいいとしても、アフターファイブのビールのために3時以降は水も飲まずにいたなんて知られた日には、それこそ恥の上塗りだ。
「ダイエットね」こまったヤツだと言わんばかりに、彼は小さくためいきをついた。「いくらダイエットでも、なにも食べないんじゃ体にいいわけないだろ」
まったくもってごもっともな話。返す言葉もない。
「とにかく飲めよ。少しでも腹に入れたほうがいいだろ」
言われて、手に持ったままだった缶コーヒーに口をつけた。
ひとくち飲むと、かわききった喉元にカフェオレの甘い味わいがしみわたる。缶コーヒーがこれほどおいしいと思ったのは初めてのことだ。五臓六腑にしみ渡るというのはこういうことを言うのだろう。缶コーヒーですらこんなにおいしいんだから、これが生ビールだったらと思うと惜しい気がした。
一方、前に座った布施主任はというと、しばらくのあいだ、缶コーヒーに陶酔する私をながめていた。
そして、私がそれを飲み終えたころ、
「しかたがないな」
つぶやきながら壁の時計を見た。
時計は、いつのまにか夜の9時を回ろうとしている。
「なんか食べに行くか?」
ふいに彼は言った。
「え?」
思いもかけない一言に、私は目を瞬かせた。
「腹ぺこでふらついてるのに、このままひとりで帰すわけにもいかないだろう。それに、こんな時間じゃ、一人で何か食べるにしてもろくな店は開いてないしな」
ま、たしかに、言われてみればそのとおりだ。
「でも、見積はいいんですか?」
「ああ、どうせすぐには終わりゃしないんだ。続きは明日やるさ」
そんなこんなで、私は彼とふたり、残業をきりあげてオフィスをあとにしたのだった。
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