お沙夜と正二郎

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間違ったことを言ったつもりはない。しかし、それは今言うべきことではなかったし、そもそも奉公人である正二郎が言って良い言葉でもなかった。 「あ、あの、お嬢様……」 「正二郎……父親みたいな事を言うのね。ふふふ、貴方は『お兄さん』なのに。」 正二郎の予想に反して、顔を上げた沙夜はいつものように楽しそうに笑った。 「はい、すみませ……は?」 勢いでとりあえず謝る正二郎だったが、その言葉は妙な所で止まり、次いで間抜けな声を漏らした。 「だーかーら、ちちおやみたいなー。」 「いや聞こえてましたけど。ちょっと意味が分からないっていうか……お兄さん?」 余計な事を言って沙夜の機嫌を損ねたかとヒヤヒヤしていた正二郎にとっては、彼女の興味が別の所にあったのは好都合だったが、唐突すぎて正二郎の理解が及ばない。 「そのままですよ。同じ家で一緒に育ってきた年上の殿方。だからお兄さん。ね?」 「はぁ……?」 間違ってはいないが何と答えたら良いか分からず、正二郎は曖昧に返事をした。 掘り返しても面倒くさくなるだけだと長年の経験から判断したからだ。 お転婆天然お嬢様の相手も楽じゃないな。 正二郎は今までの苦労とこれから訪れるだろう苦労を思い、苦笑いを浮かべた。 一方の沙夜は、自分の背後で「お兄さん」が失礼なことを考えている事など露知らず、楽しそうに下駄を鳴らして家路を急いだ。 しかしそんな彼女の唇がキュッと固く引き結ばれていたのを、見た者はいなかった。
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