これからは、みんな一緒に

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「ね、どうだった?」  トイレから出るとリビングから千佳が駆け寄ってきた。  千佳とは大学時代に知り合い、社会人二年目からこのマンションで一緒に暮らしている。ルームメイトであり大切な親友だ。 「……。陽性だった」  まさか、妊娠しているだなんて。  うつむいて自分の下腹部に手を当てる。まだ膨らんでもいないし悪阻もない。自分の体に新しい命が宿っているなんて実感はない。ただ、生理が遅れていたから妊娠検査薬で調べてみたら陽性反応が出た。それだけなのに、急に全身がずしりと重くなる。 「はぁ……」  私は大きなため息をついた。  堕ろそう。今ならまだ堕ろすことができるはずだ。堕ろすのは体に傷がつくと高校生の時に聞いたことがある。堕ろすと子供も産めなくなることもあるとか、堕ろそうとすると子供が動いて逃げようとするとか、相手を連れてこないと堕ろせないらしいとか、余計なことまでいろいろと思い出してしまう。  でも、このまま産むことなんてできない。どうせ堕ろすなら早い方が体にとっても良いだろう。  とりあえず、産婦人科に行けば良いのだろうけど、近くの産婦人科はどこにあるのだろう。平日以外でもやっている病院はあるのだろうか。できれば女の先生が良いけれど医者はだいたい男っていうし。でも、そんなこと気にしてはいられない。  意を決して「今週末、堕ろすね」と言った瞬間、私の手を取り、千佳はかぶせるように「産もう!」と、言った。  聞き違いかと思って顔を上げると、千佳は笑顔で、もう一度「産もう!」と言った。 「無理だよ」 私は横に頭を振る。  死ぬほど痛い思いをして子供を産もうなんて思えなかったし、産んだところで育てることなんてできやしない。芽生えたばかりの小さい命を奪ってしまうかもしれないけれど、堕ろすことが一番幸せになる方法だと思う。子供にとっても、私にとっても、そして、あの人にとっても。 「ね、産もうよ。せっかく授かった命だし」  千佳は私の顔を覗き込んで言った。 「父親がいないんだよ? 私一人で育てられないよ」 「大丈夫、私が一緒に育てるから」  千佳は胸を張って自信満々に言う。  いつも千佳はそうだ。ポジティブで強引で、私を勇気付けてくれる。 「千佳が一緒にいてくれるなら嬉しいけど、そんなの普通じゃない。普通なら父親がいて母親がいて子供がいる、っていうのが家族の形だと思う」 「お父さんがいなくてもいいじゃん。お母さんが二人だって」  お腹の子の父親はすでに別の家庭で父親だ。  かつて一緒に働いていた職場の先輩がそれだ。今は私が他部署へ異動になり、職場で顔を合わせることはほとんどなく、外で二人で会うことも少なくなった。食事にもめっきり誘われなくなり、最後に二人で会ったのは二ヶ月前。  そもそも彼とはみんなでご飯を食べにいくだけの仲だった。それがいつしか二人きりになり、食事の後にホテルに連れられることも増えた。  いけないことをしているのはわかっていた。けれど、私は受け入れてしまった。しかも、時々喜びながら。こうなってしまったのは、私にだって責任はある。 「産もうよ。ねっ?」 「……」  例え産もうとしたとして、子供を産む時の痛みに耐えることができるだろうか。  子供を育てることができるのだろうか。  子供の人生はどうなるのだろうか。  妻子がありながらも外で子供を作ってしまう男の子供なんて、ろくな人間に育たないだろう。男の子だったら、父親と同じことをしてしまうかもしれない。女の子だったら私みたいにシングルマザーになってしまうかもしれない。 「私が一緒にいるから大丈夫だよ。一緒にお母さんになろう」  そう言って、千佳は私の下腹部を優しく撫でた。  少しずつだけれど、産みたいという気持ちが湧き出てくるのはどうしてだろう。  千佳に産もうって言われたから?   それとも、半分は自分の血が混ざっている子供だから?   それとも、まだ彼のことが好きだから?   それとも、母性が生まれてきたから? 「私、産んでいいのかな?」 「いいんだよ」  そう言って千佳は私を見つめる。  西日を背にした千佳の笑顔が眩しかった。  今まで女の子を本気で好きになった事はない。でも、この瞬間に千佳の事を「愛してる」と思った。 「入学式も、授業参観も、その子の結婚式だって、一緒に行こう。私と千佳とみんなで手を繋いでバージンロードを歩こう。これからは、もっと、もっと、楽しいよ」  千佳を強く抱きしめ号泣した。泣き止んだ後、これから何があっても大丈夫だと思っていた。  それから、千佳はいつも以上に優しくなった。  会社を辞めて家にいる私の元へまっすぐ帰ってきてくれたし、悪阻で苦しむ私のためにあらゆる事をやってくれた。食事の準備や掃除、嘔吐した時には背中をさすってくれた。そして、私が「産む」って言った次の日にはお揃いのペアリングをプレゼントしてくれた。薬指に光る銀のリングはひとりぼっちではないように思えて、心強かった。  それなのに千佳は突然いなくなった。  千佳がいなくなって三日が過ぎた。  以前も突然いなくなっては、翌日には何事もなかったかのように家にいることがあった。それも複数回。だから、今回もそれだろうと思った。  けれど、一週間過ぎても、二週間が過ぎても家に帰ってこなかった。メッセージを送っても「大丈夫、すぐ帰るから心配しないで」のような返事が来るだけだった。 悪阻が落ち着いた頃だったからまだ良かった。もし、悪阻がひどい時に一人にされていたらずっと不安で泣いていたと思う。  退職祝いでもらったノンカフェインのアップルティーをいれて、大きくなったお腹をさすりながらリビングのソファーに腰を下ろす。  千佳と二人で住んでいるこの家は、一人になると少し広く感じて寂しかった。でも、それは少し前のこと。部屋の隅には商店街で買ったベビー用品が置かれていて、今はむしろ窮屈に感じる。  千佳はいったいどこにいったのだろう。  千佳がいなくなって一ヶ月が過ぎた。そして、臨月に入った。  千佳がこのままずっと戻ってこないことも考えて、一人で産むための準備はしていた。  出産前後に必要な物品は全て揃え終わっていたし、産婦人科には一人で通い、医師からは今のところ出産には特に問題がないだろうと言われている。だけど、これからのことを考えると不安になってしまうのは仕方ないことだった。だって、一緒に育てようと言ってくれた千佳がいないのだから。  ふと本棚を見ると、千佳と一緒に写っている写真がたくさん飾られている。大学生の時に一緒に行った遊園地や卒業旅行の韓国、初めてのボーナスを使って行ったハワイなど、どの写真を見ても私たちは笑顔で写っていた。  アルバムを開いて見てみると、私たちは時が経つにつれて似てきたように見える。  一年前、千佳と一緒に歩いていたら、テレビの取材をされて「姉妹ですか?」言われたことがある。その時はお揃いのTシャツを着ていたし、髪型もほとんど一緒だったからそう言われたのかもしれない。でも、出会った当時は似ても似つかなかった。  大学初日に大講義室の一番前にちょこんと座って、友達ができるかどうか不安で小さくなっていた私に最初に声をかけてきたのが千佳だった。真っ白のブラウスにピンクのフレアスカートでポニーテルをゆらしていた千佳は満開の桜のように見えた。  それから私たちは仲良しになって、いつも一緒にいるようになった。週末にはいつもいろいろな場所へ連れ出してくれた。遊園地や水族館、鎌倉やみなとみらいなどの観光地、テレビや映画のロケ地など、東北の田んぼばかりの町で育って、勉強ばかりしていた私にとって、あらゆるものが新鮮で刺激的だった。東京に来た時はごちゃごちゃしすぎて少し怖かったけれど千佳と一緒だったら、全てがキラキラと光ってみえた。  アルバムのページをめくるごとにどんどん私たちは似通ってくる。  そういえば、大学の時は同じノートを使っていたし、部屋着だって色違い。私が新しい服を買ってきたら翌日同じものを買ってくる時もあったし、下着だって同じメーカーのものをつけていた。ペアルックになることは少なくなかったが、嫌なことではなかった。お互い体型が似ているので、服を交換することもできたからだ。自分が今着ているピンクのTシャツの色違いを千佳が買ってきたっけ。  ふと左手を見つめると、薬指にはシルバーのリングが光っている。  そういえば、これもお揃いだ。でも、意味合いは違う気がする。 「結婚指輪みたいな意味だったのかな?」  やっぱり、私は千佳のことが好きだ。千佳に会いたい。  千佳との楽しかった思い出が溢れ出すと、一人でいる今が急に孤独に感じる。  日が暮れるとあまりの寂しさに耐えられなってきて、千佳の大事にしているウサギのぬいぐるみをきつく抱きしめながら千佳のベッドで横になって大泣きした。 「千佳、早く帰ってきて」  何度も何度も布団の中で叫んでは泣いた。しばらくすると、泣き疲れてそのまま眠ってしまった。  翌日、目がさめると千佳が隣のベッドで寝ていた。  驚いて「あっ」と声を上げると千佳もうっすらと目を開けて「おはよう」と言った。目の前にいる千佳にたくさんの質問をしたかった。 「どこにいたの?」「何をしていたの?」「どうして私を一人にしたの?」「どうして連絡してくれなかったの?」「帰ってきてって泣いたから、帰ってきてくれたの?」  聞きたいことは山ほどあるけれど、それより千佳が目の前にいる喜びが勝り、嬉し涙が溢れた。 「千佳、会いたかった」 「わたしも」  千佳は優しく私の頭を撫でる。千佳の胸に頭を押し付けると、柔らかい胸から少し甘い香りが漂ってきて心地良い。ずっとこうしていたい。 「おかえり」 「ただいま」 「もうどこにもいかないで」 「ごめんね。もう絶対一人にしないよ」 「大好き」 「私も」  千佳は私の額にキスをした。そして、唇、首筋にキスをした。そして、大きくなった私のお腹を優しく撫でたあと私の手を取り、手の甲にキスをしてから千佳のお腹に導いた。 「赤ちゃんができたの。これからは四人だよ」
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