さよならの匂いは黄昏て

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さよならの匂いは黄昏て

 真夏の太陽は灼熱を失い、西の空へと落ちてゆく。都会のビルたちにさえぎられ、昼過ぎから姿を見せなかった陽光が、空をオレンジ色に染め出した。  国の首都。その主要な駅前を堂々を横切る大通り。人の群れはまだ平日の昼間の顔をしていて、夏休みの開放的な匂いを時々花咲かせる。  交差点の角に(たたず)むカフェ。暑さから避難してきた客たちの話し声。グラスの中で氷がカランカランと涼しげな音を響かせる。  モダンでおしゃれな店内に流れる穏やかな音楽。そこへ、酔っ払いの叫び声みたいなものがいきなり割って入った。 「グリーン アラスカを出せっ!」  脅迫まがいに言った女の名は、刻彩(ときいろ) 瑞希(みずき)。どこかずれているクルミ色の瞳は、目の前にある抹茶ラテを挑むようににらんでいた。  紫のタンクトップからはみ出した腕を、隣から真っ赤なマニキュアをした女の手が軽く叩いた。 「あんた、カフェでショートカクテルは出てこないっしょ」  突っ込んだ女の名は、地庵(じあん) 隆武(りゅうむ)。瑞希と同い歳の親友。TPOまでずれまくっている瑞希の前で、ズズーっと、抹茶ラテがストローに吸い込まれた。 「飲みたい気分ってこと」 「そのあといつも、トイレ占拠するくせして」  ベリースムージーの赤紫が、隆武の指先でゆったりと混ぜられた。瑞希はカウンターテーブルに両手をついて力説するが、内容は支離滅裂――いや単なる言い訳だった。 「粗相はしてない。ただね、立てなくなってさ、話すの無理になるだけ」  ――というか、彼女は全体的にかなりずれているのだった。 「結果は一緒でしょ?」  カチューシャがわりのサングラスが直される隣で、瑞希は妄想世界へ早々(はやばや)とダイブ。     *  ――ジャズが流れるバーカウンター。  シャカシャカと心地よいリズムを刻む銀のシェイカー。あの中身を瑞希は想像するだけで心踊る。  リキュール――グリーン シャルトリューズ。アルコール度数五十五。  ジン――エギュベル 。アルコール度数四十二。  それをただ振っただけの、酒だらけのカクテル。三角のカクテルグラスが、宝石のような黄緑色にキラキラと染まる。コースターからそっと取り上げて、祝杯を上げるように一気に飲み干した。  「お酒の味も匂いもしな〜い、甘〜いカクテル〜♪」  適当なメロディーを歌い、瑞希は高椅子の上で、器用に右に左にリズムを取り踊り出す。カウンターの中で、バーテンダーが丸氷を作る音がカツカツと響いていた――     *  抹茶ラテが鎮座するカフェのカウンター席は、平和そのもの。しかし、瑞希は妄想もれを起こしていて、カフェにいる他の客が奇妙な眼差しを殺到させる。  その先で、瑞希は上半身を駆使して踊り続ける。右手を上げる。左手を上げる。肩でリズムを取る。サンダルの足は右に左にその場でステップを踏む。  いつまで経っても現実へ帰ってこない親友。その右手首にしているシルバーの細いバングルを、隆武はつかんだ。 「それはいいから、昨日のメールの話はどうしたのよ?」  ピタリと踊るのはやめて、お互いの腕を間にして、女ふたりは見つめ合う。 「幽霊のこと?」 「ただの幽霊じゃないっしょ? イケメンってあんた送ってきたでしょ」  瑞希はいきなり椅子から立ち上がり、通りに面した窓を勢いよく指差した。 「そう! 世の中の女子が怖がるのではなく、こぞって見に行ってしまう、心霊スポットとなった、レストランっっ!!」  昨日一人で行った店の方向を、夕日を見ろ的にオーバーリアクションで指し示している瑞希の腕を、隆武は引っ張り下ろす。 「あんた、余計なことはいいから話先に進めなよ。どんな顔してたの?」 「顔? それは見てない」  見る前に消えてしまったのだから、どうしようもない。一気に熱が冷めて、瑞希は丸椅子にストンと座り直した。 「どうやって、イケメンだって判断したの? あんた、いつにも増して感覚だね」  友人の言葉通りに、超適当発言が瑞希から放たれた――いや力説された。少しばかりの妄想が入りながら。 「いや、あれは絶対イケメンだった。すらっとしてるけど、最低限の筋肉が綺麗についてて、トントンと叩きつける指先が何か特殊なことをしてる繊細な感じだった」  隆武は(かたわ)らに置いてあった携帯電話のホームボタンを押して、何かを見ながら、 「それ、何時頃のこと?」  携帯電話の背を視界の端に映して、瑞希は首をかしげる。 「ん〜〜? バイト終わってまっすぐ行ったから、十九時半から二十時の間だと思う」 「そう……」  妙な間が空いて、今のやり取りでピンと来た、瑞希は急に渋い顔をして、語り口調でふざけてみた。 「警察の聞き込み捜査のようである――」  聞かれた質問は、顔を見たか。時間はいつだったか。  上下にスクロールされている携帯の前で、親友、隆武の鉄槌が下る。 「あんた取らないよ」 「あ、放置された……」  ボケたのにツッコミはなく、瑞希は玉砕――滑った。抹茶ラテを切ない気持ちですすり、眉間に手を当てて、新たな笑い――泣き真似を始める。 「うううう……」  しかし、それでも、相手にしてもらえず、沈んでいたリングから一人でたくましく復活。どこかずれているクルミ色の瞳で人の往来を追い始めた。  さっきからずっといじられていた携帯電話。それは隆武の黒髪がかき上げられると、テーブルの上に置かれた。彼女はスムージーを色っぽく飲んで、なぜかしみじみと、 「イケメンね。それがあんたの好みってことか。なるほどね」 「え? 何で納得してるの?」  瑞希は違和感を抱いて、親友の横顔を落ち着きなく、右から左、下から上へとあちこちから眺めていたが、決して返事は返ってこず、視線も向くことはなく、再び放置を食らった。  黒の後れ毛を耳にかけると、隆武がつけている金のブレスレットが、ビルの合間から細い線を描いていた夕日に(きらめ)いた。 「その幽霊、何か言ってた?」 「あぁ、うん。終わったものは終わりだって」  瑞希の白いサンダルは足掛けの上で、軽くクロスされるが、身長百六十センチの短い足は床にずり落ちた。視界がガクッと揺れた隣で、隆武の百八十二センチの長い足が床の上で余裕で足を組む。 「あんた、まだ割り切れてなかったの?」  さっきまでテンション高めで、ノリノリだった瑞希の表情は急に曇った。ストローの空袋がビリビリに破かれてゆく。 「イケメン幽霊に会うまではね。もっとこうしてたら、離婚しなかったのかな? とか色々後悔しながら、一人でぼうっとピザとパスタ食べてた」  レストランのおひとり様デビューの日だった、昨日は。おしゃれな店で、カップルか友達ばかりに囲まれた空間。  寂しさの泉の底へ、泡をゴボゴボと立てて沈んでゆく。くぐもった水の中のように、まわりの音はBGMにして、一人きりをひどく痛感していた矢先の、心霊現象だった。 「会ってどうなったの?」 「確かにそうだなと思って、過ぎたことは過去にしようって決めた」  瑞希には幸せへと続く怪談――いや階段となっていた。バッチリですと言わんばかりに親指を立てて、渋く微笑んで見せた親友にはあきれたが、隆武は彼女を誇らしくも思った。 「あんたらしいね、素直で切り替え早いところは」 「イケメン幽霊に感謝だよね。気持ちが楽になったからさ。お礼言いたいけど、どこにいるのかはわからないから、神様にお願いして、本人に伝えてもらおう」  別離という拘束から解放された瑞希は、今はどこまでも晴れ渡る青空のようにすがすがしい気持ちだった。  離婚したのは約一ヶ月前。都会の荒波で生きてゆくのは色々と苦労がある。隆武はバッグからタバコを取り出して火をつけた。 「これからどうすんの?」 「もうバツ二だからさ、結婚に自分は向いてないんだと思う」  瑞希は流れてきた煙を手でつかみ、とっくに消えてしまっているそれを息を吹きかけて飛ばす仕草をした。隆武の赤いマニキュアがトントンと灰皿にタバコの灰を叩き落とす。 「またいつものあれ?」 「そう。結婚ってさ、子供の戸籍のためにするものだよね? 他に意味あった?」  所詮紙切れ。別れない保険には決してならない。そんな現実に出会って、瑞希の心はどこか冷めきっていた。 「あんた、相変わらず女子力ないね」 「いやいや、二十代前半まではあったよ。結婚に憧れてさ。絶対にしたいと思ってたけど、今は思ってない」 「まぁ、それは何となくわかるわ」  どこかずれているクルミ色の瞳はまぶたに隠され、十年前にタイムトリップし、若気の至りに浸る。バツがひとつもついていない頃の話。 「好きな人と同じ苗字になるとかで、テンション上がるけどさ」 「あんた、離婚しても上がりっぱなしだからね」 「そうそう。旧姓に戻ってないからね、毎回毎回。ネットサーフィンならぬ、苗字サーフィン!」  戸籍が次々に変わり、ふたつ前の住民票がすぐにたどれない運命となっている瑞希。しかし、そこには彼女なりの理由があった。  隆武の赤い唇からタバコの煙は吐き出されて、 「まぁ、戻らなくてもいいんじゃないの」 「…………」  瑞希の両手は力なくピンク色したスカートの上に落ち、その裾を力いっぱい握りしめた。唇を強く噛みしめ、カフェの壁の隅を凝視する。  人は間違いを起こす――  それはわかっていても、許せない自分がいる。ぐるぐるとうねりを上げる憎悪の渦。誰かを恨み憎しむことは、想像以上に余分なエネルギーを使うことだ。  生き辛さの原因になっていることは心得ている。それでも許せない度量のなさに、自責の念という沼に沈んだままはい上がれない。  考えれば考えるほど深みにはまって、暗くなるばかり。しかし、逃げるつもりも諦めるつもりもない。いつかは超えてやる――  やる気という炎を燃やして、瑞希はスカートから手をパッと離し、さっきと変わらず、明るく話を元へ戻した。 「で、それにさ、もう恋愛を最初からしてやり直すの面倒くさい」  ブラウンの髪を気だるくかき上げると、内手首につけた香水が鼻先をかすめた。 「また出会ってさ。片想いとかしてさ、両想いにまでたどり着いて、結婚はその先の話だよ。もういい。っていうか、二度と恋愛などしない!」  勢い余って、瑞希は握り拳でテーブルをドンと叩いた。タバコは灰皿に押しつけられ、火と煙は散った。 「そういう風に言ってても、人って恋するんだよ」  瑞希の顔は隆武の頬に、キスでもしそうなほど近づき、思いっきり同意する。 「だよね〜? だからね、そうならない方法を思いついた」 「何?」  瑞希は椅子から勢いよく立ち上がり、彼女の白いサンダルは床に仁王立ち。そうして、右手を高くかかげた。 「修道院に行って、聖女になるっっ!!!!」  カフェのシーリングライトにぶつかって、女ふたりのまわりだけ照明が揺れ出した。こんなオーバーリアクションの親友を、隆武は熟知していて、 「あんた、修道院には大人のオモチャ――持っていけないよ」 「あぁっっ!?!? 盲点だった……」  両手で頭を抱え、瑞希は椅子に座り、煩悩という海へすぐさま撃沈。 「女の性欲は三十代後半になってから強くなるって言うよ」  隆武の言ったことは、巷で(まこと)しやかに語り継がれていること。その真相を、瑞希は自分の肉体を持って、実証済みだった。 「今まさに、その登り坂の三十四歳。加速してるのが身にしみてわかる〜〜!」  二十代の頃は年に一回したいと思えばいいほうで、あれだけ毛嫌いしていたのに。今では煩悩だらけの毎日を送る瑞希であった。 「我慢するのよくないらしいよ」  黒髪が少しかかる隆武の肩に、瑞希の頭が軽く乗せられる。 「ね? イライラしたり、全ての物事に充実感が持てなくなるらしいね。それがストレスになって、肌はボロボロになり、老化は早まる……」  クルミ色の瞳に映る夕暮れは、斜めに傾いていた。 「でもね、それでも、今日家に帰ったら、机の引き出しに隠してある大人のオモチャは紙に包んでわからないようにして、ゴミ袋に入れる。そして、明日の朝、ゴミ捨て場に置いて、煩悩とはおさらばするっっ!!」  具体的なシミレーションも明確になり、瑞希はまだ半分以上も残っている抹茶ラテの苦みと甘味に癒され、目をそっと閉じた。 「そんなうまくいくかね?」  真っ暗な視界に、隆武のあきれた声が響くと、瑞希はさっとまぶたを開け、さっそく挫折した。 「あっ! ダメだ」  しかし、彼女の心配事は少々違っていて、 「明日、資源ゴミの日だ――」  大人のオモチャをどうリサイクルするのか、懸命に考えた。乾電池はわかる。しかし、最近はUSBで充電可能。電池は必要ない……。どうにも答えが見つからず、カテゴリー間違いと判定した。 「不燃ゴミの日までは、何とか目に入れないことにしよう! あとはアパートの解約をして……」  俗世との決別。未知の世界への憧れで、瑞希の心は完全に地に足がついていなかった。この世よりもあの世に近くなっている親友に、隆武はこんな話を振ってみた。 「そのイケメン幽霊は落とさないの?」 「幽霊と恋愛――?」  女ふたりの中でカウントダウンが始まる。五、四、三、二、一……! 瑞希の妄想世界がスタート――。       *  ――突然の出会い。ふたりがけの席に一人きり。そうだったのに、白いテーブルクロスの向こうに座る男の幽霊。組まれた両腕にイライラと指がトントン叩きつけられている。  驚いて離したフォークとナイフは皿の上で八の字を描いて、無防備な瑞希の手に、幽霊のそれがそうっと伸びてきた。  触れる。冷たさを予感していたのに、きちんと温かみがあった。両手を包み込むように優しく握りしめられ、愛おしそうに彼のほうへ少しだけ引っ張られる。  そうして、他の客の話し声も食器のぶつかる音も何もかもすり抜けて、男の甘く低い響きでささやかれた。 「お前の知らないところでいつも見ていた。愛している――」  B級映画も真っ青な突拍子もないハッピーエンド。しかし、瑞希にはどうでもよく、手を握り締められたまま、天にも昇るような心地になった。   (きゃああああっ! ずっと見ててくれたなんて――!)  しかし、すぐに何かに気づいて、瑞希は男の手を乱暴に振り払い、勢いよく椅子から立ち上がったが、それはそのまま後ろにバターンと派手な音を立てて床に倒れた。  まわりで話していた客も接客していた従業員も全員注目した。仁王立ちして、幽霊に向かって指差している瑞希に。 「それって、私に取り()いてたってことですか〜〜!」  またイライラと指が打ちつけられる男の腕を見ながら、瑞希はきっぱりと意見した。 「っていうか、お断りです。幽霊は触れられないから、セックスできません。それは対象外です。毎日したいと思う人とじゃないと結婚しない主義です!」  人とは愚かなもので、めぐりめぐって同じところに戻ってきてしまい、瑞希の妄想はここで終了――     * 「はっ!」  我に返ると、さっきより夕暮れは深くなり、ガラスの向こうでは交差点の信号が変わって、人の群れがどっと流れ出した。瑞希は慌てて顔の前で、両手を横へフリフリする。 「消し消し! 煩悩とはおさらばする!」  いつも通りの親友を横目でうかがって、スムージーの赤紫を、隆武は悪戯っぽく振った。 「ま、あんたが決めたことだから、いいんじゃない?」 「隆武、理解してくれて、ありがとう」  新しい門出が幸先のよいスタートのように感じて、珍しく微笑んだ。瑞希の横で、隆武の携帯電話がズズーと振動を起こし、 「?」  慣れた手つきでロックをはずして、画面に映った文字を読むと、隆武の瞳は携帯電話からそれた。手を止めたまま、落ち着きなくあちこちに視線はさまよう。 「…………」  売れっ子モデルの親友はいつも、事務所からの呼び出しは携帯電話。だから、今もそうなのだと瑞希は思った。 「仕事のメール?」 「…………」  隆武は返事を返すこともせず、携帯のホームボタンを押して画面を切り替えては、文字を読み、また別の文章を見つめて、どうやら事態が飲み込めていないようだった。  珍しい親友の態度に、瑞希は不思議そうな顔をする。 「どうしたの?」  じっとりとまとわりつくような気配から解放されたように我に返り、隆武は携帯電話をスリープさせて、バッグの中へしまった。 「ううん、何でもないよ」 「そう」  言動がバラバラだったが、瑞希は聖女の妄想に軽くトリップしていて、まったく気づいていなかった。テーブルの上に置いてあったタバコとライターも片付けられてゆく。  ――パイプオルガンの音色が響く、聖堂に両膝をつき、ステンドグラスがちりばめた海のような青の中で、瑞希は神に祈りを捧げようとしたが――ストローに添えていた手が不意につかまれ、現実に戻った。 「ねぇ? あんた。新色のコスメが出たんだけど、一緒に見に行かない?」 「いいよ」  隆武のブレスレットが金の光を揺らめかせているのから視線を外し、彼女の顔を瑞希は見つめた。 「西口なんだけど……」 「大丈夫、歩けばいいから」  親友の手のひらから伝わる温もりを感じながら、瑞希は心配させないように微笑んだ。  隆武はまだだいぶ残っているベリースムージーを放置して、席からさっそうと立ち上がる。 「じゃあ、行こ?」  百八十二センチプラスヒールの高さ。プロポーション抜群の隆武に、客の視線が殺到した。しかしそれは、いつものこと。  先に入り口へと歩き出した親友の背中がやけに気になったが、瑞希がもっと心配だったのは、 「あ、あぁ。一気飲み!」  半分以上も残っていた抹茶ラテを大急ぎで飲み干した。
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