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恋心と青空と大先生と(part3)
彼女の脳裏にすぐ浮かび上がった――
日付は今日と同じ、八月十八日金曜日。それなのに、まったく違う夜。タワーマーションの最上階で、クレーターが見えるほどの大きな月。
その銀色をした光の下で聞いた、ケーキにハチミツをかけたような甘さダラダラの、まだら模様の声。
山吹色のボブ髪を器用さが目立つ手でかき上げ、宝石みたいに異様に輝く黄緑色の瞳。これらを持つ男。
瑞希は頭痛いみたいに、あきれたようなため息をついた。
「手をつなぐ……。はぁ〜、藍琉さんと一緒だ」
菫の聡明で好青年。クールなイメージは一瞬――いやデジタルに消え失せた。
瑠璃紺色の瞳は純真無垢になり、声色は螺旋階段を突き落とされたようなぐるぐるとした惑わせ感があるものに豹変し、甘すぎでのどが痛くなるようなダラダラの口調でおねだりした。
「お前に甘えたいの、ダメ〜?」
瑞希は一気にふざけた感じになり、御銫の超ハイテンションを負けじと模倣した。
「『俺』の真似しちゃってるんですか〜?」
時々言葉遣いが丁寧になる、あの純粋無垢なR17な少年。菫は右手を上げて、顔の前で爪を見つめながら、首をかしげると漆黒の長い髪が背中でサラサラと揺れ動いた。
「そうかも〜?」
「どうして、手をつなぐんですか?」
今度は流されまい――いや罠にはまらないと、瑞希は果敢にも挑んだ。しかし、菫は手を下ろして、春風が吹き抜けるように穏やかに微笑む。
「可能性の問題――」
真面目に答えてきているのは、瑞希にもよくわかったが、基礎を教えるセミナーをほどんど理解していない彼女は、
「え……? さっきの話ですか?」
懸命についていこうとしたが、とても不十分な質問で、当然ストゥイット先生から厳しい追及がされた。
「さっきっていつのこと〜?」
口調と印象は子供みたいにのんびりしていたが、先生の聡明でクールさは健在だった。瑞希は真剣そのもので、また不十分な答えを言う。
「いつって、今の講座で聞いた話です」
「どの話〜?」
「雨の話です」
もうすでに理論という思考回路は儚く消え去り、感覚という習慣へ戻ってしまった瑞希。
自分が動く時、他の人も動くという、セミナーの最初でされた話がまったくできていないため、大先生から零点の答案用紙を突っ返された。
「あれ〜? ボクの話そうだったかなぁ〜?」
「え、どういうことですか?」
赤ペンでバツがつけられたテスト用紙を手に握りしめたまま、瑞希は先生に詰め寄った。そうして、菫大先生から教育的指導――。
「事実の話――」
基礎は説明されたが、今はもう解説はついていない。瑞希がさっき答えたのと同じレベルで、先生が親切にも返してくれた言葉の前で、ただただ立ち尽くしかなかった。
「ん? 事実……?」
待っていたが、どこかずれているクルミ色の瞳は、スポットライトが消えた舞台を見て、開け放たれたままのドアを見つめて、目の前にいる男を見上げただけだった。
エアコンの乾いた涼しい風が夏を物語るのに、春香りを漂わせる「ふふっ」と少し薄い綺麗な唇から笑い声がもれて、
「それよりも、キミがボクにとって、大切な人――になっちゃったかも〜?」
自身のことが疑問形。可愛げな言い回し。
それなのに、見聞きしたことを、感情というフィルターにかけて、適当に引き出しにしまっている瑞希は恋愛関係の話だと思って、あきれた顔でこの人の名を口にした。
「今度はランジェさんと一緒……」
聡明な瑠璃紺色の瞳は一気に邪悪さを持った。ニコニコの笑みが少し困った表情になり、人差し指をこめかみに突き立てる。
「おや? そう来ましたか。それでは、僕が池に入って溺死です〜」
湯けむりの向こうで、マゼンダ色の長い髪を持つ男の、凛とした澄んだ声色まできっちり再現されていて、瑞希は思わず吹き出した。
「あはははっ!」
ふたりきりの会場に響き渡る笑い声。間髪入れず、菫の雰囲気はガラッと変化する。
切り込むような鋭い眼光になり、自分では再現がちょっと難しく「んんっ! んんっ!」と何度か咳払いをして、出来るだけ極力声をしゃがれさせた。
「っつうかよ、話元に戻せや。てめぇ、しょっぱな別んとこ飛ばしやがって、責任取りやがれ」
高架下を背にして月影を頭上にかかげた、あのウェスタンスタイルで決めたガタイのいい男と過ごした時間が蘇り、瑞希は粋よく掛け声をかけた。
「兄貴〜!」
菫は居住まいを正して、冷静でもなく穏やかでもなく、重厚感を漂わせる。今度はかなりかなり! 再現が難しく「んんっ!」と何度かわざとらしく咳払いをし、最大限に低い声にした。
そうして、天までスカーンと火山噴火するように怒鳴り散らした。鋭利な瑠璃紺色の瞳を持って。
「貴様、そこでおとなしく寝ていろ。俺に逆らうとはどういうつもりだ! 俺にこれ以上手間をかけさせないように、動きを封じてやった。ありがたく思え」
秀麗を真似して勢いよく突き出された人差し指に向かって、瑞希も負けないようにそれを向けた。
「海羅さんのす巻きだ〜!」
エンターテイメントでも見たようなノリノリの気分な瑞希姫を前にして、菫の瑠璃紺色の瞳は聡明でクールに戻り、緊張感のない女に問いかけた。
「――今までの話で、どんな情報が手に入ったの〜?」
瑞希はすっと真顔に戻った。聞かれなかったら、スルーしていってしまっただろうと気づいて。
「……情報が手に入った? そうわざわざ聞くってことは、ただのモノマネじゃなかったってことだ……。え? 今何があったの?」
策士がターゲットにわかるように罠を仕掛けるはずがない。ましてや、世界的に有名な大先生の戦略は、ライバル会社に回避されないレベルで行われている。
菫は可愛く小首を傾げて、
「あれ〜? ボクのセミナーの話どこにいっちゃったのかなぁ〜?」
何重にも仕掛けられた罠。このタイミングで行われないと意味をなさない。なぜなら、菫の今後の言動に大きく影響するからだ。
モノマネが自然に始まったように、瑞希からは思えていたが、彼女の言動は巧妙に利用され、菫の思惑通りに全てのことは進んでいた。
そんなこととは知らず、真意を見逃したモノマネから抜けられず、瑞希は頭を抱えた。
「どこにいっちゃったんでしょう? うぅぅ……。いや〜! あんなに一生懸命聞いてたつもりだったのに……」
「手つなごう?」
一緒に仲良く原っぱに遊びに行こうみたいに、差し出された大きくて綺麗な手。瑞希はそれをじっと見つめて、警戒心をあらわに聞き返す。
「どうしてつなぐんですか?」
手を伸ばしたまま、菫はエキゾチックな香を撒き散らしながら、前かがみで近づいてきた。
「教えてほしいの〜?」
「はい」
「それじゃ、ボクと一緒に楽しい場所に行ったら教えるかも〜?」
「あぁ、わかりました」
ストゥイット大先生から教育的指導――。
「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」
漆黒の髪が残念そうに、白い薄衣の肩からさらっと落ちた。何を指摘されたのかわからない瑞希は、目を点にさせたが、
「え……?」
それさえも菫の罠であり、無防備な瑞希の手を引っ張って、自分の胸の中へさっと引き寄せ、
「ふふっ」
瑞希の視界は一瞬にして白一色になった。わざと目隠しした白いモード系ファッション。
ふたりのまわりで、紫色の光が打ち上げられた花火のように、無音のままいくつも広がる。
部屋が眩しいほどのきらめきで包まれ、収縮するように消え去ると、瑞希と菫の姿はどこにもなかった。
忘れ物をチェックしにきた警備員が、何も残っていないことを確認して、セミナー会場の明かりは全て消された――――
*
――――耳に入り込んできた楽しげな音楽。ジリジリと焼きつけるような何かが、素肌に差しているを感じる。それは夏の陽射しだった。
「えっ? 今度はどこ?」
瑞希のクルミ色の瞳は真っ白から解放されると、綺麗に整えられた植え込みの緑が広がった。
空を見上げると、どこまでも続いてゆく透明な絵の具をこぼしたような青空。太陽の乱反射が痛いくらい目に差し込んできて、思わず目をつむる。
「ボク話してたから、のど乾いちゃった〜。キミはどう〜?」
右隣のかなり上のほうから、ふんわり落ちてきた菫の声に起こされたように、瑞希は目を開けた。
顔を上げると、彼の白い服からはるか遠くで、童話に出てくるような洋風の城がやけにファンタジックに佇んでいた。
突然どこかへ連れてこられることに、もう慣れた瑞希は驚きもせず、どこかのテーマパークだとチャチャっと判断した。
彼女なりに真剣勝負だったセミナー。何も飲み物は飲んでおらず、
「あぁ、乾きました」
仕事の解放からなのか、菫の瑠璃紺色の瞳は冷たさよりも、春の訪れのような穏やかさがにじんでいた。
「ふふっ。キミは水でいいの〜?」
「あぁ、はい。どうしてわかったんですか?」
白いモード系ファッションは瑞希を置いて、近くのワゴンショップへ歩いてゆきながら、可愛く語尾をゆる〜っと伸ばす。
「事実の問題かも〜?」
「まだセミナー続いてる……?」
慌てて後ろからついていった瑞希の斜め横にあった時計は、三時――いや十五時過ぎを指していた。
「Hey? Give me a bottled water ’n’ tea one each」
菫の言語が急に変わって、瑞希はあたりを見渡した。
「また外国?」
雲ひとつない夏空を見上げ、彼女は立ち止まって今頃この疑問を思案する。
「考えてみれば、海羅さんの時は夜。ランジェさんの時は昼だった。どうしてそんなことが起きるんだろう?」
解決していない矛盾点。アウトレットのバッグの肩紐に指を引っ掛けて、あたりをぐるっと見回す。
やけに人が少なく確かめようにも、ワゴンの中にいる従業員しか近くにいなかった。
あとは遠くに揺れる蜃気楼の海の上で、浮かんでいるような人影だけ。
「よし、ストゥイットさんに聞いてみよう!」
赤く細い縄のような髪飾りと、漆黒の髪が美しいなびきを風の中で踊っているほうへ振り返ろうとする。その刹那、閃光が走った気がした。
「ん? 雷かな? 今光った気がしたけど……」
急な夕立にでも遭ったようなフラッシュ。しかし、雲はどこにもなく、パークのまわりを囲む木々の、さらに遠くを見ようとするが、夢を壊さないようにと配慮されているものを追い越すことはできず、一応全てが快晴だった。
「ん〜? でも晴れてるよね? 気のせいだったかな?」
陽光のシャワーを浴びているような瑞希の耳に、菫の買い物が終わったのが聞こえてきた。
「Thank you〜」
物事は順調に進んでいるようで、誰もおかしいと思っていない。平和なテーマパーク。
菫はペットボトルだけを店員から受け取り、足早に去ってゆく。彼にまた置いていかれ気味で、彼女はまぶたをパチパチさせた。
「あれ?」
「♪〜〜 ♪〜〜」
舞踏会でワルツを踊っているように、右へ左へゆらゆらと揺れる、白いモード系ファッション。陽射しの乱反射でまぶしい限り。
その背中で、イニシアティブを握っている漆黒の髪と、赤の髪飾りを追いかけるが、背丈の差が五十センチもあり、距離は広まるばかりで、瑞希は大きな声で呼びかけた。
「ストゥイットさん?」
陽気な鼻歌はふと止み、振り返ると、陽だまりみたいな柔らかな笑みを引きしめるような、凛々しい眉がこっちへ向いた。そうして、可愛くおねだり。
「菫って呼んでほしいなぁ〜」
彼に近づいてきた瑞希は軽くうなずいて言い直した。
「あぁ、菫さん?」
何かに戸惑っている彼女に、菫は不思議そうな顔で、
「どうしたの〜?」
ショップワゴンと彼の手の中にあるペットボトルを交互に見ながら、
「お金払わなくていいんですか?」
「ボクとキミの貸切だから払わなくていいの」
さっき遠くにいた、蜃気楼の上に立っていたのは従業員だけ。広いパークの中で、客の姿が他に見えない理由に納得がいった。
しかし、瑞希は喜ぶわけでもなく、一人取り残されたように立ち尽くす。
「え……?」
プレゼントされた遊園地の貸切。背が高くて凛々しい眉で、着物みたいな白のモード系の服を着て、エキゾチックな香を漂わせる男とふたりきりの、特別な時間。
今すぐ死んでもいいと、妄想するほど浮かれ気分になるほど好みのタイプ。頭がずば抜けてよく、世界的に有名で、好青年で陽だまりのように穏やか。それでいて妖艶。そんな男が、菫 ストゥイット。
急に動かなくなった瑞希をじっと見つめる、聡明な瑠璃紺色の瞳の奥に隠された、精巧な頭脳の中では、次元の違う話が展開されていた。
(今のキミの立場は私利私欲で動くことが許されてない。もし、自分のことだけを少しでも考えるなら、キミはここで死ぬべきだ。そのほうがキミも含めて、たくさんの人が幸せになる)
今までの男たちもそうだったが、決して瑞希を守ることに肯定的ではなく――いやむしろ否定的あり、彼女と対等な立場でもない。それでも、わざわざ時間を割いて、瑞希を品定めしている。
それはマキャヴェリズムで慈愛だ。
瑞希は悔しそうに唇を噛みしめ、握りしめていた両手の力は憤りでますます強くなってゆく。
「っ……!」
しかし、まだ怒るところではなく、必死で彼女は怒りを腹でぐっと堪えた。菫の口調は相変わらずで、語尾は春風のように間延びしていた。
「どうしたの〜?」
「いつ予約したんですか?」
瑞希の声は怒りでひどく震えていた。
「今朝だけど?」
「取り消してくださいっ!!」
抑えていたが、瑞希の怒りはとうとう爆発し、従業員しかいないテーマパークに大きくこだました。
「どうして〜?」
怒りが感情だと気づかないまま、白いモード系ファッションにつかつかと詰め寄り、瑞希は聡明な瑠璃紺色の瞳をきっとにらみつけた。
「今日来たかった人もいたかもしれないじゃないですか! その人たちの気持ちはどうしたんですかっ?!」
この日を楽しみにして、仕事や勉強をしてきた人もいただろう。当日突然行けなくなった。その人たちの残念がる心を、瑞希は見たくもないし、起こしてくもなかった。
「どうしたかなぁ〜?」
相手が何をしてこようと、どこまでも冷静な菫。彼にもきちんと感情はある。なぜこんなに平静でいられるのか、熱くなっている瑞希にはもう知るすべがなかった。
「こんなお金の使い方は間違ってます!」
「どう間違ってるのかなぁ〜?」
「神様が与えてくださった、みんなのお金です! 自分たちのためだけに使うのはおかしいです!」
人の幸せが自分の幸せへとスムーズに変換できる彼女の価値観は、他の人には理解され難いものだった。
しかし、菫の少し薄い唇から「ふふっ」と笑い声がもれて、持っていたペットボトルをおでこに当て、こんなことを言う。
「ボクの可能性が上がったかも〜?」
さっきから菫の言葉にはある法則性が隠されていたが、それに気づくどころか、戦況を見事にひっくり返されて、瑞希は怒っていたこともすっかり忘れた。
「え……? 菫さんの可能性? どういう意味ですか?」
だが、重要なことは別にあって、菫はペットボトルを肌からはずし、出来のよくない生徒に親切丁寧に教育的指導。
「でももうひとつは失敗してる」
「もうひとつ……。失敗?」
ピンクのミニスカートを瑞希は落ち着きなく触った。他人優先という尊い気持ちだけでは、世の中は生きていけないと、菫は感情に踊らされている女に指摘する。
「キミの中には、パークが休園日という可能性はなかったの?」
「休園日……?」
どこかずれているクルミ色の瞳は少し見開かれ、どうしてこんな間違いに気づかなかったのだと、どこで判断をミスしたのかと視線をあちこちにやって、落ち着きなくあたりを見始めた。
大先生はもう一度だけチャンスを与える。
「傘を持っていくいかないの話と一緒。パークが休園日なら、キミが守るべき人の心は、休日出勤をしてる従業員のほうでしょ? これが戦場なら、キミの大切な人たちはもう生きてない」
思い込みだけで、あのエリアに敵からの攻撃が来る。だから、あの人たちを守りに行こうと進んだが、本当の激戦区は別の場所で、敵の攻撃がすでに下されており、間に合わなかった。
今の見当違いな怒りで見過ごした可能性だとしたら、ありえない話ではなかった。瑞希は深く反省し、丁寧に頭を下げる。
「それもありましたね……。教えてくださってありがとうございます」
しかし、菫はどこまでも厳しく現実を突きつけた。
「お礼が言えるのは大切なことだけれど、今のままではキミがしたいことを実現するのはとても難しいかもしれないよ」
「そうですね……」
落ち込み。それが感情だと気づいていない瑞希は、立ち止まってしまった。助けなくてはいけない人が待っていることも忘れて。
漆黒の長い髪は不意に揺れ、菫はペットボトルを近くのベンチに寝転がして、
「それよりも、貸切を取り消したいんでしょ?」
デジタルに会話は切り取られ、順番を入れ替えられ、瑞希は菫の言っていた可能性について聞こうとしていたのをすっかり忘れ、落ち込みモードから回復した。
「あ、あぁ、そうです! お願いします」
ちょうどそばを通りかかったスタッフを、菫は慣れた感じで呼び止める。
「Hey! Tell the owner, my reservation is canceled」
太陽の光を浴びている薄衣の白は、菫の大きな体の線を儚げに映し出して、ある意味チラ見せの効果を最大限に活かし、瑞希のそばへ戻ってきた。
「取り消したよ」
「よかったです……」
みんなの幸せが戻ったと知って、彼女は安堵のため息をもらす。菫の超長身はベンチにさっと腰掛け、クリアなボトルを差し出した。
「はい、水!」
「あぁ、ありがとうございます。ごちそうさまです」
つられて、瑞希は隣に座ってしまった。なぜ水が今差し出されているのかも知らず。
菫の瑠璃紺色をした瞳は、今は青空の淡いブルーが混じって、いくぶん明るい色になっていた。
のんびりとした時間が流れてゆく。瑞希はキャップを開けて、ゴクゴクと水を飲み、同じように空を仰いだ。
その時だった、真昼よりも強い閃光が走ったのは。
(あれ? また光った気がする……。何だろう?)
飲んでいる手を止めて、どこかずれているクルミ色の瞳は空を見渡す。晴れているはずなのに、雷光みたいなフラッシュが焚かれる原因を探す。
聡明な菫の瞳には、落ち着きのない瑞希がしっかりと映っていた。ベンチにもたれかかっていた漆黒の髪はすっと起き上がって、
「あ、そうだ。ボク思い出した〜」
「何をですか?」
瑞希の視界には空の青から、凛々しい眉が広がった。風上に座っている菫の香が、彼女の鼻をくすぐる。
「瑞希ちゃん、さっき『色恋沙汰については、ちょっとピンときません』って言ってたよね?」
「あぁ、兄貴の時ですね?」
初めて会うが、共通の知り合いがいるのは、瑞希の心を緊張感から解放させた。菫は自分の爪を見る癖をして、可愛く小首を傾げると、腰までの長い髪はベンチを優しくなでる。
「どうして、そう言ったの〜?」
「ランジェさんにも言ったんですけど、恋愛はもうしないんです」
瑞希は知らない。チビっ子が書類がないと騒いでいたのは、菫がヘリポートで見ていた四枚の紙だったと。その内容は、前に出てきた男たちと瑞希のやり取りを記載したものだったと。
知っているのに、菫はわざと聞き返す。
「どうしてしないの〜?」
夕暮れ前のカフェで隆武と話したことを、今は少し沈んだ気持ちで告げた。
「……二回も離婚してるんで、もう面倒臭いと思うからです」
「それでも、人って恋するよね?」
「そうならないように、修道院へ行って聖女になるんです」
大先生から瑞希へ教育的指導――。
「修道院へ行けないって可能性はないの?」
「行けない……」
青天の霹靂で、楽しげなパークの音楽が遠くなった気がした。菫は瑞希をじっと見返して、静かにうなずく。
「そう。行けないってこともあるよね?」
嫌な予感ほどよく当たる――。
兄貴のターン時に直感した、あの不安はやはり自分の歩む未来の形で、そう思うと瑞希は菫を質問責めにした。
「どうして、行けないんですか? 何か知ってるんですか?」
しかし、菫はどこまでも氷雨降るほど冷たくて、現実的な話をする。
「可能性の問題。そうでしょ? 行きたいって気持ちはキミの感情。まだ起きていないことは事実にはならない。だから、行けないって可能性はゼロじゃない。違う?」
大先生の教育的指導を前にして、瑞希の熱くなった気持ちはクールダウンした。
「あぁ、そうですね。ありがとうございます。行けなかったらどうしよう?」
傘を持っていくいかないの例題とはちょっと違う。どちらか一方を選んで終わりではなく、その先に続く可能性を予測する問題。
しかしそこで、瑞希の脳裏で電球がピカンとつき、別のことをひらめいてしまった。
「っていうか、恋愛の話をふってきたのは菫さんだから、何か話があるんですよね?」
時には理論に勝る直感。だがそれは、他の人になら通用したが、ストゥイット先生の頭脳にはまったく歯が立たず、彼は春風のように「ふふっ」と柔らかく微笑み、
「逆ハーレムっていう可能性はあるかなぁ〜? 瑞希ちゃん」
修道院へ行かないのなら、どんな未来でもそこには広がっているのだ。
夢見る乙女なら、飛び上がって喜ぶシチュエーションだが、三十四歳バツ二で聖女になりたい瑞希は、かなり冷めた反応を示した。
「逆ハーレム……? って、今のターンの話みたいなことですよね?」
訝しげな顔で、菫の横顔を見つめたが、彼はペットボトルを傾けて紅茶を一口飲み、
「そうかも〜?」
「ん〜?」
瑞希は考える。恋愛シミュレーションゲームのように、選択肢を選べば好感度が上がる。現実はそんなに甘くないと。彼女はきっぱりと、
「お断りです」
「どうして〜?」
逆ハーレムを実現するのに何が必要か、理論的に説明できないながらも、瑞希はよく心得ていた。
「不平等じゃないですか?」
「どうしてそう思うの〜?」
修道院へ行って聖女になり、人の幸せを祈りたい。他人のこと優先で自分のこと後回しの彼女は、人の注目が自分にどう集まるかではなく、まわりの人が幸せかが何より重要だった。
「私にみんなの気持ちが向かってるわけですよね? みんなの対等な恋愛はどこにいったんでしょう?」
心――気持ちが大切な瑞希とは対照的に、菫は実現可能な可能性を探し出してきた。
「可能性はとても低いけれど、それはこうだったらなくなるかも〜?」
「どんな手がありますか?」
「男の人たち同士も恋愛してる……。可能性は限りなくゼロに近いけど」
理論の話――つまりは卓上論。現実の話ではない。瑞希はうんうんと何度もうなずく。
「あぁ、それなら平等だ……。BLに囲まれる日々……」
だが、刺激が少々きつ過ぎて、プチ妄想世界へトリップした。
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