王子にリフレイン

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王子にリフレイン

 都心より離れた街道を歩いていた瑞希のサンダルは、細い路地へと入った。車の走行音は背後で少しずつ遠ざかってゆく。  夜道を照らす街灯がポツリポツリと白い花を咲かせている。生ぬるい湿った風が申し訳なさそうに、頬や髪を揺らしてゆく。  人通りも少なく、遠くの方で犬が警戒心丸出しで吠えている。いつも通りの帰り道だったが、瑞希の心の中は違っていた。ふと立ち止まり、来た道を振り返る。 「おかしいなぁ〜。誰でも平等で、一日二十四時間っていうけど……」  買い物に一緒に行った隆武と別れて、帰路に着くまでを、記憶力が崩壊気味の瑞希は思い出して、首をかしげた。 「今日は絶対に、二十四時間じゃなかった! さっきのってどういうこと? っていうかどうなってたんだろう? っていうかもう終わったんだよね?」  ぼんやり立ち尽くしていた瑞希の脇を、自転車がブレーキの悲鳴を上げながら通り過ぎていった。 「考えてもわからないから、とりあえずそれは置いておこう」  瑞希は再び歩き出す、聖女への道というでたらめな歌を歌いながら。 「♪さぁ 扉を開けよう  魔法の鍵 ドアノブへ〜♪」  彼女の背後で、靴音が聞こえない女が追ってきていることに気づかず、瑞希はのんきに歌いながら、アパートへの角をひとつ曲がる。 「♪滑り込む部屋 後ろ手で鍵を閉めるの  脱ぎ捨てたサンダル〜 そのままで♪」  あとをつけてきた女は腰に手を当て立ち止まり、風もないのに長い髪をなびかせる。その隣にすらっとした体躯の男が背を向けて立った、まるで空から落ちてきたみたいにいきなり。  男と女は夜だというのに、バチバチと火花を散らすようににらみ合っていたかと思うと、女だけが煙のようにすうっと消え去った。  瑞希の霊感センサーに何かが引っかかり、パッと振り返った。 「ん?」  しかし、そこには誰もいない。暗い夜道が広がるだけ。 「気のせいだった? 誰かいた気がしたんだけど……」  バッグを背負い直して、瑞希はさらに細い道へ入る。不自然なほど、人がいなくなった平日二十時過ぎの住宅街。 「♪机の引き出し 魅惑のオモチャ  新聞紙はないから〜 プリント用紙を使って〜♪」  角をさらに曲がると、終点のアパートが見えた。昨日までは何ともなかった、通路を照らす電気が幽霊でも出てくるようにちらちらと点滅を繰り返す。  瑞希はそんなことも気にせず、一歩一歩アパートへ近づいてゆく。順調に煩悩絶滅運動は進んでいるかのように思えた。 「♪くるくると巻けば 聖女の階段登る  半透明の袋に入れて――」  その時だった、背後にコトッと靴音が突然響いたのは。人の気配はさっきまでなかった。足音もしなかった。人の仕業ではない違和感を瑞希が抱くより早く、 「それ以上、前へ進んではいけませんよ」  氷河期のような冷たさがあるのに、業火(ごうか)のような熱のある男の声。真逆の性質を合わせ持つ独特の響きに、瑞希は歌うのもやめ、 「え……?」  さっと振り返った。天から差し込む聖なる光のように、街灯の明かりを浴びる背の高い男がひとり佇んでいた。それが誰だかわかると、瑞希は驚き声を上げ、 「一条さんっ!?!?」  冷静な水色の瞳。鼻筋のすうっと通った神がかりな美しさの顔立ち。中性的な唇としなやかな紺の長い髪を前にして、瑞希の丁寧な説明が始まった。 「どうして、現代の王子って言われてる、一条財閥の御曹司が、こんな貧困層が暮らす住宅街にいるんですか?」  バツ二フリーターの瑞希と御曹司というあり得ない――出会うはずのない組み合わせ。というか、隆武と別れるまで、一条の御曹司がこの男だと知らなかったのだ。 「そちらの説明はのちほどします。失礼――」  白いカットソーの細い腕は瑞希に華麗に伸びて、舞踏会で踊るワルツのターンでもするように彼女は、一条の胸に一気に引き寄せられた。  急接近してきた男物の香水が、瑞希を断崖絶壁から煩悩という名の海へ突き落とす。 (きゃあああああっっっ!?!?)  視界は一条の服で一瞬にして真っ白になり、中性的な雰囲気だがきちんと腕力のある、現代の王子にノックアウトされた煩悩姫は、クラクラと目まいがして足元はおぼつかなくなった。  しかし、一条の両腕でしっかりと抱きしめられて――いや捕まれられていて、逃げられない牢屋――彼の胸の中で、瑞希は身も心も壊れてゆくのだった。 (一条さんの香水が〜〜〜〜! 女の迷宮を熱くさせる〜〜〜!)  何とか逃げ道はないかと、瑞希はもがきにもがいて、空を仰ぎ見ようとするが、一条がつけているシルバーのチョーカーと彼の神経質なあごが見えるだけ。  王子だらけ。煩悩だらけ。それでも振り払い、純粋な夜空を想像しようとするが、一条の紺の長い髪が触れるか触れないかで、瑞希の額をかすめる。  それがどうにも絶妙なタッチで、媚薬でも飲まされたかのようなゾクゾク感に襲われ、瑞希はとうとう敗北した。  王子の腕の中にいる煩悩姫は心の限り叫ぶ。 (神様、このまま死んでも本望ですっっ!!)  瑞希の妄想世界で、天からスポットライトが差し込んだ。それに乗り、成仏しようとした時、  ドガァァァァァッッッ!!!!  体をバラバラに引き裂いてしまいそうなほどの爆音と、大地震のように地面がグラグラと揺れ出した。突風が吹き荒れ、一条の冷静な瞳は一瞬閉じられた。 「っ!」 「えぇっっ!?!?」  彼の腕の中で、瑞希の体はビクッと反応し、驚き声をとどろかせたが、ガラスが割れる音にかき消された。  ミニスカートから出た素足と腕に、細かい破片がチクチクと針を刺すようにぶつかってくる。  真っ暗だったはずの住宅街がオレンジ色に染まり、ゴウゴウと燃え盛る炎の咆哮(ほうこう)蹂躙(じゅうりん)する。  一条の腕の力が少し弱まると、瑞希は恐る恐る振り返った。 「え…………」  そこには、あと一分もしないでたどり着くはずだったアパートが、跡形もなく崩れ落ち、真っ赤な炎に包まれていた。  一条に呼び止められなかったら。あと少し進んでいたら。瑞希はもうここにいなかっただろうと思うと、ひどい寒気に襲われた。  肩にかけていたバッグの肩ひもをきつく握りしめて、なくしてしまったものがどれだけ大きいものか気づくと、瑞希の両腕は力なく脇へ落ちた。 (家がない。私の持ち物のほとんどが……なくなった)  半ば放心状態で、今までの人生を振り返る。  もともと家族仲はよくはなかった。それでも、結婚をして距離を置いて、表面上はうまくやっているように見えていた。  しかし、離婚をして実家に戻った時に、決定的な亀裂ができたのだ。嫁に行った娘には心理的にも物理的にも、居場所などなかった。  離婚などという恥ずかしいことをして外を出歩くなと言われ、邪魔だから早く家を出て行けと言われ、自身の存在を否定されて、瑞希は本当に一人になったのだと思った。  誰も自分を必要としてくれる人は、この世界にはいない。友達も知人もいない。精神的に疲れていたのもあるのだろう。死ぬことを考える毎日を送るようになった。  苦しい数ヶ月が過ぎた、ある日。家族に自殺願望を告げた。返ってきた言葉は、 「だったら、死ねばいいだろう――」  血がつながっているから、何をしても自分のそばからいなくならない。その安心感と甘えが、虐待や家族間の殺人を生むのだろう。  人は間違いを犯す。だから、許してやればよいのだ。しかし、今もできない。そうして、瑞希は家族から失踪した――  燃え盛る火がまるで、憎悪の炎のように見え、悔しさと悲しみの涙でにじむ。 (だから、二度と旧姓には戻らない。あの地は二度と踏まない。そう決めたから、このまま――)  瑞希は涙を強く拭って、一条のことも忘れて、夜の道を歩き出そうとした。熱くなった心と体を、一条の冷たい声が引き止める。 「どちらへ行くのですか?」  順番は多少違っても、修道院へ向かおうと瑞希はした。 「……自分が行こうとしてた場所です」  処分するものはもうなくなった。次は移動することだ。瑞希は一条の香水の横を通り過ぎ、去っていこうとする。  靴底が擦れる音はしないのに、一条のロングブーツは反転した。しかし、彼は瑞希の体に触れることはなく、あくまでも独特の響きがある声だけで引き止める。 「行かせませんよ」 「どうしてですか?」  瑞希が振り返ると、燃え盛る炎にも負けない、氷柱のような冷たい水色の瞳を見つけた。 「先ほどのことを、あなたはどのように判断しているのですか?」  消防車のサイレンが響き始めた夜空を、瑞希は見上げる。 「さっきのこと……?」  隆武と別れたあとから、ここへとたどり着くまでの間のこと。大通りに近い夜道で、横へとりあえず置いた答えは今も見つかっていない。  聖なる導きのように、一条は瑞希を論破しようとする。 「どんなことでも意味があると、あなた自身が言っていたではありませんか。先ほどのことはあなたにとって重要ではないのですか?」  何もかもスルーしてきたが、一度立ち止まって考えるのが賢明。瑞希はそう思って、戸惑い気味に聞き返した。 「……何が起きてるんですか?」  一条の紺色をした髪がゆっくり横へ揺れる。 「こちらで話している時間はありません。先ほどの別荘へ着いてからお話しします」  白のカットソーに、黒い細身のパンツ。今の一条ではなく、別の服を着ていた彼と話した場所。 「山奥のところ……」  バッグの外ポケットに入れっぱなしの携帯電話を、瑞希はぎゅっと握りしめた。アパートの燃えかすは、バチバチと音を立てて崩れてゆく。  突然の出来事で、思考回路は完全にショートしていて、時間ばかりが悪戯に過ぎていきそうだったが、 「こちらで従っていただけないのでしたら、どのような力を使ってでも連れて行きます。あなたを手放すわけにはいかないのです――」  それでも一条は瑞希に手を伸ばさなかった。まるで離れていても彼女を捕まえることが簡単だと言うように。  瑞希も一条から逃げ切れるとは思っていなかった。彼が言ったさっきの出来事を体験していては。 「……わかりました。短い間ですが、お世話になります」  瑞希が頭を下げると、他の建物から人々が次々と顔を出す夜道から、姿をくらますようにふたりは歩き出した。     *  黒塗りのリムジンは県境から高速道路に乗り、多少の渋滞に巻き込まれはしたが、すぐにスピードに乗った。  向かい合うリアシートのはす向かいに、瑞希と一条は座っている。別荘に着いてからと言われている以上話しかけても、教えてもらえるはずもなく。ふたりが言葉を交わすことはなかった。  運転手とは仕切られている座席。ふたりきりで夜を走り抜けてゆく。  一条の後れ毛を耳にかける仕草は優雅で、その指先は細く神経質。ガラス細工のような(はかな)さの中に、氷の(やいば)のような芯があるギャップ。中性的な容姿で、老若男女を魅了する絶美な男。  瑞希は見ないように努力しても、気づくといつの間にか、一条に目を奪われているのだった。  もう何度見 ()れたかわからない、車窓の外へ向けられている、冷静な水色の瞳をそっと横からうかがう。 (それにしても、一条さんって、やっぱり綺麗な人だなぁ〜)  ずいぶん広い車内なのに、向かいのリアシートにぶつかりそうなギリギリで、一条は細い足をスマートに組み替えた。瑞希は物欲しそうに唇に指先をつける。 (足長いなぁ〜。身長いくつあるんだろう?)  どう見ても、百九十センチより高いのは明らかだった。瑞希はどうやったら、こんなに人の体は成長するのかと首を傾げていた。  そんな彼女の姿は、冷静な水色の瞳に乗車した時からずっと映っていた。夜色が向こうに広がる車窓を鏡がわりにして、密かに観察する。一条は曲げた人差し指をあごに軽く当てる。 (なぜ彼女は先ほど、短い間――と言ったのでしょう? おかしいみたいです)  炎のオレンジ色に染まる瑞希が、住宅街で頭を下げた時のことが、一条の脳裏で鮮明に再生されていた。  車窓に映っている瑞希の顔は今や崩壊を迎えていた。ムンクの叫びみたいに、バカみたいに口を開けて、一条をガン見。 (王子、その考えてる仕草が(うるわ)しゅうございます! きゃあああああっ!!)  瑞希は両手で頭を抱え、一度もこっちを向いていないが、バッチリ自分を見ている水色の瞳にさらに釘付けになった。 (その猛吹雪――いや氷河期のような冷たい視線で見つめられたい……)  一条の絶美にやられた瑞希は、とうとうエロ妄想へと落ちてしまった――     *  ――銀の満月が()える。  人里離れた山奥の洋館。財閥の別荘という無法地帯に、月明かりが斜めに差し込む。窓枠から大理石の床に青白い光を(あや)しげ落としていた。  カツカツと靴のかかとが右へ左へ行ったり来たり。響き渡るその音に、いつの間にか気を失っていた瑞希は目をふと覚ました。  体を動かそうとしたが、両腕に何かが食い込み、慌てて自分の体を見下ろす。  「い、いつの間にか椅子に縛りつけられてるっ!」  何がどうしてこんなことに。そう思って、薄暗い部屋を見渡すと、四角く切り取られた窓からの月明かりに、ロングブーツが入り込んだ。サディスティックな一条の声が響く。 「どのようにして欲しいのですか?」  リボンでもたつかせ縛った長い髪。腰のあたりで軽く組まれた両手。一条が歩くたび、ロングブーツのかかとはカツカツと靴音を戦慄(せんりつ)交じりにあたりに漂わせる。  ふたりきりの広い屋敷。拘束されて、自由も人権も無残に奪われた。焦りの炎に下からじりじりと(あぶ)られているような気持ちになって、瑞希の声は震え出す。 「な、何を言わせる気ですか?」  質問したのにし返してきた女。靴音はピタリと止み、一条はこれ以上ないほど優雅に微笑み、ロングブーツのかかとは綺麗にそろえられた。 「答えないのでしたら、仕方がありませんね。こちらのようにしましょうか?」 「どちらの?」  瑞希が不思議そうに顔を突き出すと、一条の右腕が素早く動いた。紐のようなものが女を拘束している椅子が置かれたすぐ近くの大理石に打ちつけられ、  ピシャン!  と痛そうな音が響き渡り、瑞希の悲鳴が突如上がった。 「きゃああああっっ!」  さっきまで一条の手の中には何もなかったのに、凶器が握られていた。瑞希は心臓をばくばくとさせながら、 「どこから(むち)を持ってきたんですか!」  どちらが主人かまだ理解していない女。一条は答えることもなく、彼の腕は素早くまた動いた。  ヒュルヒュル〜!  鞭が宙を切る音が近づいてきて、瑞希の頬をかすめるギリギリのラインで通り過ぎていった。 「え……?」  彼女が振り返ると、机の上に乗っていた『媚薬』と書いてある瓶に鞭は、  シュルシュル、シュパンッ!  と巻きつき、薄闇を横滑りして飛んでゆき、一条の手の中に瓶は収まった。曲芸並みの出来事を前にして、瑞希は一条に問いかける。 「どうしてそんなに鞭の扱いが上手なんですか? 何かやってるんですか?」  主人はもちろん答えない。中から媚薬を一条――いや一錠だけ取り出して、瓶はそのまま床に落ち、ガシャンとガラスの破片は月影の中で鋭く散らばった。  優雅な笑みの向こうに隠された、王子の淫らな(うたげ)に招かれてしまった瑞希。一条の神経質な指先にある錠剤。あれを飲まされたら最後。 「聖女になるつもりが、性奴隷になってしまう〜〜! 最初の二文字は同じなのに、後半で意味が全然違ってる〜〜〜っ!」  一条のロングブーツが足早に迫ってきた――     * 「――緊縛されたいのですか?」  妄想ではなく現実の空気を通した、一条の独特の響きが聞こえてきて、瑞希は我に返った。 「え……?」  冷静な水色の瞳と神経質な頬が真正面を向いていた。健全なリムジンのリアシートで瑞希と一条は見つめ合い、瑞希は思わず、  はい――  と答えそうになった。慌てて、一条とは反対の車窓へ振り返り、(かぶり)を振る。 「消し消し! 煩悩とはお……」  そこで言葉が止まった。瑞希は自身を戒めるために、頬を両手で軽く叩く。 「おさ……」  一条の甘くスパイシーな香水が、煩悩だらけのアラサー女の決心を鈍らせる。 「おさらばしたくないなぁ〜」  一条からの緊縛をご所望の瑞希だった。三日坊主どころか一日坊主にもなれない自分の顔を車窓に見つけて、彼女は正気を取り戻した。一条の方へ顔を戻し、ひどく言いづらそうに、 「……いいえ」  名残惜しい。涙が滝のように流れる。取り消したい。後悔の嵐に見舞われていた瑞希だったが、強い違和感を抱いた。 (あれ? 今何か変だった。どこが……?)  また車窓の外を眺め始めた一条の神経質な横顔。柔らかな絹を紡ぐようなピアノ曲。ルームランプが照らし出すリアシート。近づいては遠ざかるを繰り返す街灯。  何もかもが正常だった。 (……わからないなぁ〜。とりあえず、これは横に置いておこう)  瑞希は考えるのをやめて、薄汚れたアウトレットのバッグとは別に増えた、黒地に赤のアルファベットが斜線を引くおしゃれな紙袋。そこから、小さな箱を取り出した。  ふたを開ける。ワインレッドのリップスティック。これをプレゼントしてくれた隆武(りゅうむ)の言葉を、瑞希は思い出した。 「会えなくなっても、どこにいても応援してるから、何かあった時にはこれでも見て、頑張りなよ――」  エールとともに送られた口紅。瑞希はキャップをはずして、ローズピンクをくるくると出し、決意を新たにする。 (よし! 一条さんのところで体勢を整えて、絶対に修道院に行くぞ! いつになるかはわからないけど、絶対諦めない!)  小さくガッツポーズをして、瑞希は口紅を元へ戻した。走行音は遠くくぐもり、過ぎてゆく街灯は規則正しく、マンネリ化。  一条の香水は微熱を引き出し続け、いつしかそれは心地よい温もりとなった。  さっきから流れているピアノ曲は、地上に叩きつける雨を連想させる、十六分音符の六連符。不意に入り込む高音が、雷鳴のようなクラシック曲。 (ん〜〜……誰の何ていう曲……?)  まぶたがやけに重く、閉じてしまうと、思考がループする。 (誰の何ていう曲……?)  そんなことを何度も繰り返していたが、とうとう瑞希は眠りに落ちてしまった。無防備に両手はリアシートに転げ落ち、健やかな寝息が走行音ににじむ。  高速道路が緩いカーブに差し掛かると、瑞希の体は一条の前のシートへなだれ込みそうになった。甘くスパイシーな香水の香りは一瞬車内から消えて、次は瑞希のすぐ隣に現れた。  綺麗な逆三角形を描く一条の肩に、横倒しになるはずの瑞希の頭はもたれかかった。  冷静な水色の瞳は、ふたりきりの空間で女を捉えると、細い指先は瑞希のブラウンの髪へ伸びてゆく。  (もてあそ)ぶように指で髪を絡め取り、神経質な頬へとそっと引き寄せて、指の力を抜くと、くるくると螺旋を描きながら、ブラウンの髪は瑞希の肩へ向かって淫らに落ちた。  もう一度同じこと――リフレインする。  瑞希の内側を侵食するように、一条の指先は髪をすくい上げ、悪戯っぽく滑り落とす。そうして、中性的な唇がかすかに動いた。 「一期一会(いちごいちえ)。彼女に出会えたことを、神に心から感謝いたします――」  ふたりを乗せてリムジンは高速で走り続ける。山奥にある一条の別荘を目指して。       *  満点の星空。月明かりの中で、一条に手を取られ、瑞希はワルツのステップを踏む。冷静な水色の瞳は今は陽だまりのように穏やかで、どこかずれているクルミ色の瞳はうっとりと見つめ返す。  瑠璃色――濃く淡い真逆の青。そのタキシードの腕に瑞希は身を任せ、右に左にステップを踏む。空高く浮かんでいるガラスのハイヒールで。  空中というふたりきりの舞台で、星空の舞踏会は続いてゆく。優雅な一条王子と瑞希姫は――  その時、ピンクのふわふわドレスを身にまとった体はふと揺すぶられた。 「――着きましたよ」  メルヘンチックな夢は強制終了した。瑞希はまぶたを開けると、頬につけた手の甲にべったりとよだれがついていた。 「……ん?」  リムジンの走行音のかわりに、虫の音が川のせせらぎのように響き、急速に意識が戻ってきた。一条の別荘に連れてこられたと思い出して、慌ててよだれを拭き取り、 「……あぁ、すみません。眠ってしまって」  荷物をまとめ、シートを横滑りした。優雅な笑みをした一条は、細く神経質な手のひらを差し伸べる。 「どうぞ」  その仕草が、瑞希をさっきの夢へと一気に引き戻した。ふわふわとしたピンクのドレスを着た、彼女は裾を上品に広げて会釈をし、 「ありがとうございます」  リムジンから降りても、瑞希は空に浮かんでワルツを踊っているように、ふらふらと一条のあとについてゆく。  閉鎖された空間を感じさせるような、使用人も召使いの出迎えもない、屋敷の大きな玄関に入ろうとすると、空から降ってきたように、軽薄的な男の声が響いた。 「――早かったね」  また現実に引き戻された瑞希は、立ち止まって話している一条を見つけた。 「えぇ、予想した通りの時刻でしたからね」  一条も相当な背の高さだが、さらに長身の男が玄関の扉前に立っていた。照明と横に並ぶような位置にある顔を、瑞希は決して忘れるはずがなかった。白いサンダルは敷石をザザッと言わせて急に立ち止まり、人差し指を男に向ける。 「あれ? 何でここにいるんですか?」  それに応えることはなく、男は一条の横顔に問いかけた。 「何? お前、これに話してないの?」  一条は優雅にうなずき、 「えぇ、公正ではなくなるかもしれませんからね」 「そう? フライングしてるやついるけど……」  男ふたりにしかわからない会話。瑞希が割って入ろうとすると、 「フライングって何の話――」  途中で、男がナンパするように軽薄的に微笑んで、 「何? お前。俺にまた手コキ――してくれんの?」  ザバーンッ!  と、モラルハザードの海へ、瑞希はいきなり突き落とされた。びしょ濡れという汚名を着せられて、それでも健全という名の陸へ自力ではい上がる。  怒りで歪んだ表情で反論したが、最後の言葉がおかしい限りだった。 「『また』じゃないです! 手コキでもないです! ただ触っただけです――!」  一条は笑いもせず、驚きもせず、瑞希に振り返り、 「なぜ、彼のペニス――を触ったのですか?」  別のエロワードが飛んできて、唯一女の口から思わず声がもれ出た。 「あ……」  一条財閥の御曹司。現代の王子様。彼の前での粗相。瑞希は慌てて、両手を顔の前で大きく左右へ揺らす。 「いやいや! 一条さん、誤解です。これにはきちんとした訳があるんです!」 「お前さ、浮気がバレた男みたいだね」  男の言った言葉に反応したのは、一条だった。細く神経質な手の甲は中性的な唇に、瞬発力バッチリですと言わんばかりに、パッと素早くつけられ、一条はくすくす笑い出し、 「…………」  肩を小刻みに揺らして、それきり何も言えなくなって、いわゆる彼なりの大爆笑を始めた。  予想外の言動をしている一条の顔を、瑞希は不思議そうにのぞき込む。 「どうして笑ってるんですか?」  笑いの渦から速やかに戻ってきた一条は、別荘の玄関前で何が起きているのか告げた。 「あなたが自ら罠にはまっているからではありませんか」 「え? 今どこに罠があったの?」  瑞希は男ふたりを交互に見ていたが、 「それ、たぶん俺?」  罠を張れるほどしっかりしているはずなのに、支離滅裂な男の言葉を聞いて、瑞希は大声を上げた。 「どうして自分の言動が疑問形なんですか?!」  ミラクル摩訶不思議現象である。本人が首を傾げている以上、聞き出せるはずもなく、一条が話を元へ戻した。 「何があったのですか?」  未だ汚名返上は叶っておらず、瑞希は居住まいを正す。 「(まこと)僭越(せんえつ)ながら、説明させていただき――」  いや正しすぎた。男から即行ツッコミ。 「お前それ、これが王子ってこと?」  しかし、瑞希の顔は真剣そのもので、 「はい。でも、王子から私の存在はどんどん遠ざかっていってるんです……」  悲しくなるほど、乙女の恥じらいが破壊された――いや身から出た錆。軌道の違うふたつの彗星(すいせい)のように、一条の香水が遠ざかってゆく。  ように思えたが、男は斜め上に人差し指を持ち上げ、ホストみたいに微笑んだ。 「そう? お前も人見る目ないね」 「どういう意味で――」  瑞希と男だけで話が続いていきそうだったが、にわかに一条の猛吹雪を感じさせるような冷たい声が吹き荒れた。 「説明はどちらへいったのですか?」  一瞬氷漬けにされたような寒気を覚えて、瑞希はすぐさま返事をし、 「あぁ、はい。こちらのようなことがあったんです!」  勢いよく右手を斜め上にかかげた――――
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