純真無垢なR17(part1)

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純真無垢なR17(part1)

 夕方の帰宅ラッシュ。朝の喧騒にプラスされる、同僚や友達、恋人などの楽しげな会話。線香花火の小さな炎のように、あたりに散りばめられた駅構内。  ピッという電子音を鳴らして、次々と改札口へ吸い込まれてゆく人々。その脇にある銀の鉄格子を利用客がさっきから繰り返す往来。  学生ふたりのリュックが横切ると、いきなり白いシャツが現れた。ずいぶんはだけていて、止まっているボタンは前がひとつきり。  まるで翼でも広げたように、長袖の腕を柵の上に横たわらせた。フリーダムに袖口のボタンは全てはずされている。 「魂が濁ってたら……」  その男――いや十代の少年の声は、皇帝で天使で猥褻(わいせつ)で純真で大人で子供で、様々な矛盾だらけ。質感は数々の真逆のまだら模様。それなのに、どんな聖水にも負けない透明感を持つ。  首に幾重にもかけたシルバーのネックレス。手先が器用と言わんばかりの手のひらで、そのうちのヘッドのひとつ――時計がすくい上げられる。  ――十八時一分十九秒。  サラリーマンが少年の前を通り過ぎると、不思議なことに白のシャツは消え去った。だがしかし、螺旋(らせん)階段を突き落としたようなぐるぐる感のある声が語り続ける。 「……守る必要なんてないんだよ」  女物の肩がけバッグが改札から出くると、銀色をした鉄格子の前に、ピンクの細身のズボンが紺のデッキシューズを連れて立っていた。 「そんなやつ……」  人混みよりも頭ひとつ半出ている、異様に背の高い少年。彼の目は一度見たら忘れられないほどの強烈な印象。  どこかいってしまっているように焦点が合わない。それでいて、威圧感が漂う。宝石のペリドットのようにキラキラと輝く黄緑色の光を放つ瞳。 「……死ねばいい」  死神みたいな言葉が平和な日常――駅の改札口に降臨した。しかしそれは、禍々(まがまが)しくではなく、神々(こうごう)しく。  何の感情も持たない機械のような無機質な表情の前で、少年が手を上げると、マスカットが突然現れた。  蛇が絡みつくようなデザインのバングルをした腕が、綺麗な唇に果実を運ぼうとする。しかし、不意に止まり、マスカットは不思議なことにどこかへワープしてしまった。  山吹色のボブ髪はサラサラと横へ揺れて、少年は後ろへ体全体で振り返った。かがみこんで白いシャツの肘を銀の柵にもたれ掛けさせる。  黄緑色の瞳で、小綺麗な女とサラリーマンのふたりを捉えた。少年の整った顔立ちは、軽薄的にナンパするように微笑み、軽く上げられた彼の右手。 「ねぇ、そこの彼女?」 「はい?」  見つめ合っていた男女は、一斉に少年へ振り向いた。女はメイクもバッチリで、鈴の音のような可愛らしい声。 「どうしたの?」  ホストみたいに微笑んだ少年に、足を長く見せるためのハイヒールが慌てて近寄ってきた。 「あ、あぁ! 聞いてください!」 「何?」  少年が首をかしげると、何重にもかけられていたペンダントのチェーンが、チャラチャラと柵にぶつかった。 「この人、私に痴漢――したんです」  女はそう言って、今は斜め後ろになってしまったサラリーマンを指差した。改札内でビジネスシューズが足早にやって来る、口ごもらせながら。 「い、いや……」 「そう」  そこにどんな意味があるのかわからない、短いうなずきがまだら模様の声であたりに響き渡った。  どこかいってしまっている黄緑色の瞳には、女のブレスレットをした手に握られているものが映っている。一万ギル札三枚。 「そのお金どうしちゃったの?」 「これで、黙ってて欲しいって言うんですよ。ひどいと思いませ――」  女は息巻いて、持っていたお金を背の高い少年の顔前で見せびらかした。  待っていたと言うように、ナルシスト的な笑みは消え、何の感情も持たないアンドロイドのような無機質な声が途中でさえぎる。 「嘘」 「え……?」  女は信じられないものでも見るように、言葉を失った。それに構わず、山吹色のボブ髪は気だるくかき上げられる。 「痴漢されてないよね? お前」 「されましたっ!」  売り言葉に買い言葉。女はなぜかヒステリックに叫んだ。それでも、 「嘘」  少年の雰囲気は一瞬にして変わり、どこかの国を治める皇帝のような堂々たる態度で、女を絶対服従させるように、さっきと同じ言葉を繰り返した。  距離を詰められたわけでもなく、怒鳴り散らされたわけでもなく、暴力を振るわれたわけでもないのに、女はガタガタと震え出した。いきなり死刑が言い渡された人が必死で懇願(こんがん)するように言う。 「う、嘘じゃないですっ!」  強気な女と何か言いたげなサラリーマン。矛盾という匂いが生まれた。  ボブ髪をした少年の豹変は改札口にいたたくさんの人々にも、異様な空気を漂わせていた。  どこかいってしまっている黄緑色の瞳を見つけて、人々がこそこそ話を始める。しかも、冬の星空みたいに目をキラキラと輝かせて。  「じゃあ、どうされちゃったの?」  まだら模様の声が軽薄に聞き返すと、写メのフラッシュが一斉に雷光のように()かれ出した。  だが、少年にとってはいつものことで、そんなことよりも、金を握っている女が優先。さっきまで勢いがあったのに、女の視線があちこち(せわ)しなくなった。 「それは……え〜っと……」  少年はさらに前へかがむため、長いピンクのスボンは後ろで交差される。 「どこをどう触られたの?」  恥辱(ちじょく)的な質問に、女はカッとなって言い返そうとしたが、 「あなたまで、私に言葉でセクハラするん――」  さっきまでなかったはずのマスカットをつまんだ、少年の指先が、女に突きつけられた。 「お前でしょ? 心にセクハラしてんのは」 「どういう意味ですか?」  まだら模様の声の持ち主は現場を見ていなかったはずなのに、確証があるというように話し始めた。 「お前が痴漢されたふりして相手の男を脅して、お金を奪い取るのは今回ので七十六回目。違う?」  罪人が逆転。問い詰めている少年はこの女の名前も知らない。柵の近くに立っていたら、たまたま後ろでもめていただけだ。 「何をデタラメ言って――」  女は勢いを取り直し、バカにしたように笑った。少年は気にした様子もなく――戦車のキャタピラで踏み潰すように、強引にさえぎった。  雰囲気は威圧的なのに、ホストみたいな軽薄的な笑みが矛盾を生む。翡翠色の果実を持つ手を、ナンパするみたいに斜めに持ち上げる。 「そう? ちなみに七十五回目は今朝、七時五十九分十七秒、十四番線のホームで。七十四回目は昨日の、十九時十三分四十五秒、今と同じ十五番線のホームで少し前寄り。まだ言っちゃうよ〜! 七十三回目は――」  日付。時刻は秒単位まで。場所。怖いほど言い当てられてゆく。怪奇現象にでも遭ったみたいで、女は顔面蒼白になった。 「な、何で……?」  ハイテンションでどこまでも続きそうだったデータは、マスカットを綺麗な口に投げ入れたことで止まった。 「見てる人間っているんだよ、世の中。最低でも一人いる。誰だか知ってる?」 「……?」  女はじっと見つめた、少年の宝石のように異様に輝く瞳を。それはまるで催眠術のようで、自分が今どこにいて何をしてどう思って、自分が誰だったかまで、煙に巻かれたように、ぐるぐるとわからなくなってゆく。  それらから解放するため、パンと手を打ち鳴らしたように、少年から言葉の続きが告げられた。 「お前。お前自身が見てる。自分の心裏切ってる。綺麗に着飾ってるけど、(みにく)い老婆みたいな心してるよね、お前って」  綺麗だと自負しているような女。突きつけられた言葉は屈辱的。唇がワナワナと震える。 「そんな……」 「脅すって、最低な人間のすることだって知ってた?」  排気ガスだらけの汚染さえた首都。それなのに、まるで聖堂のような神聖な場所で神が天から与えし光が、少年のボブ髪に妖精が舞い踊るように、降り注いだようだった。 「どうしてですか? みんなしてますよね?」 「みんなしてるから、していいって理由はどこからくんの?」 「…………」  自分の意思で、自分の決断で生きているつもりが、ただ流されていただけだった。そう気づかされて、女は言葉をとうとう失くした。  少年は思う。テレビドラマの見過ぎで、世の中がおかしくなっていると。現実で同じことをするのはどういう意味になるのか、個性的なバングルをしている手を上下に軽く振って教えた。 「脅すっていうのは、人の心を物のように縛りつけて、自分の思い通りに動かす。確信犯だよね? だから、心にセクハラしてるんじゃないの?」  女は両手で顔を覆って、しゃがみ込んだ。肩を小刻みに震わせて、嗚咽(おえつ)をもらす。 「うぅ……!」  自分の前で女が泣く。動揺する男は多い。だが、この皇帝のような威圧感のある少年――男は、人が思っているよりも以上に厳しい性格だった。 「泣いてる暇があるんだったら、人を傷つけないで生きていける方法を探したら?」  どうでもいいのだ。人を蹴落として、平然としている女など。容赦なく浴びせられる正論。女は派手に泣き出した。 「ひくっ!」  女の手にぎゅっと握りしめられていたはずのお札三枚は、一瞬にしてはだけた白いシャツの隙間から見える鎖骨の前に移っていた。  ザザッ!  と、視界が揺れる。テレビの砂嵐が割って入るように。     *  女と異様に背の高い少年は、いつの間にか強風吹き(すさ)ぶ荒野に立っていた。人の靴音も話し声も改札を通る電子音も何も聞こえない。泣いたふりをしていた女は驚いて思わず立ち上がった。 「っ……!」  少年は慣れた様子で、右手を高く上げた。すると、地平線のかなたから、黒い(かたまり)が猛スピードで迫ってくる。  何か極められないほど、あっという間に近づいてきて、  ガシャーンッッッ!  鉄が(ひず)む音が不気味に響いた。女は悲鳴を上げ、 「ひ〜〜っ!」  彼女の瞳には、三日月型をした鋭利な刃物が、自分の脳天目指して迫ってくるのが映り込んでいた。何の感情も持たない、少年のまだら模様の声が言う。 「お前みたいな女いらないんだよ、はっきり言って。死ねばいい――」  暴言。いや違う。少年にとっては聖句(ロゴス)としか言いようがなかった。そうして、  ザバンッ!  神からの鉄槌でも下るように、女は脳天から真っ二つに裂け、ゆらゆらと煙が登るように姿を消した。     *  非日常から、再び現実へ戻ってきた。女はまるで魂が抜けたみたいに、焦点の合わな瞳で、ふらふらと去ってゆく。   さっきから写メ撮られまくりの少年は、何の感情も持たない瞳で、回収した三万をサラリーマンに渡した。それを受け取った三十代の男は、ざまみろ的な顔を女の背中に向けていた。  そうして、皇帝のような威圧感は、今度サラリーマンに向けられる。 「お前もお前」  自分に矛先(ほこさき)が向くとは思っていなかった男は、ずいぶん驚いた顔をした。 「は、はい……?」  無事に戻ってきたお金。それを財布へ入れている男に、新しいマスカットが突きつけられた。 「何? お金渡して、自分の心売り飛ばしてんの? 間違ってるやつの言うこと聞くってどういうこと?」  財布から視線を上げると、黄緑色の子供よりも無邪気な瞳と視線がぶつかった。 「いやこれは、痴漢だと言いふらされて、社会的地位を落とさないように、家庭を守るため――」  厳格という言葉がひれ伏すほど、異常な厳しさを持つ少年。彼は写メを撮られまくりながら、翡翠色の果実を一口かじる。 「自分の信念曲げてまで生きる意味って何? お前、何のために生きてんの?」 「妻と子供のためにです」  当然と言うように答えた男の、クールビズのシャツはどこか輪郭がぼんやりとしていた。器用さの目立つ手が上下に振られると、果実の甘い香りがふわふわとあたりに漂う。 「さっきの三万ギル、誰に渡すつもりだったの?」 「あぁ、それは……」  支離滅裂だと突きつけられたサラリーマンは返事に困った。なぜこんなことになっているのか、少年は親切にも(さと)そうとした。 「自分のことがきちんとできてないから、本当に大切なものを見失っちゃうんでしょ? 妻と子供がいなくなったら、お前何のために生きんの?」 「そ、それは……」  サラリーマンの視線は足元をウロウロとさまよう。シャツと同じように自身の輪郭までぼやけてしまっている男。 「人生いろいろあるでしょ? 妻と子供がずっとそばにいるとは限らないよね? 地位も名誉もずっとあるとは限らないよね? ()の自分になった時、お前何のために生きんの?」  思いもよらないことを聞かれて、男の唇はまったく動かなくなった。 「…………」  しかし、人生はそんなことがやってこないとは言い切れない。少年はまるで教師が生徒に優しく教えるように結論にたどり着いた。 「その答えが信念でしょ? それがないから、簡単にお金で心を売り飛ばすんでしょ?」  十代の少年が三十代のサラリーマンを叱っているの図。 「自分のために生きます」  男は綺麗にまとめたつもりだったが、異常がつくほど厳しい少年はチェックメイトをかけた。 「人生そんなに甘くないよね? 具体的にどうすんの?」 「…………」  自転車操業並みに、適当にやりくりしてきた人生の果てだった。  三十代の男は少年に言い返す言葉はあった。しかし、自分の欲を満たすために生きるとは、体裁(ていさい)を気にする人間が口にできるはずがない。  かじっていたマスカットは、少年の綺麗な口の中へポンと投げ入れられた。袖口のボタンが全開の白いシャツは、鉄の柵にハの字に乗せられる。 「三十七年と九ヶ月。お前、今まで何して生きてきたの?」 「な、何で、年齢を知ってるんだ……?」  怒鳴るのでもなく、問い詰めるのでもなく。ただ無機質にまだら模様の声が響くだけ。 「人生の半分近くも生きてきて答えられない。お前何やってんの?」  皇帝のような威圧感と威厳。それとは対照的に、サラリーマンはぴらぴらの紙のように軽く、イライラとした感情に引きずり回され始める。 「じゃ、じゃあ、反対に聞くけど、何のために生きてるんだっ?!」  駅の改札口が、急に聖堂になったような気がした。  白のはだけたシャツとピンクの細身のズボン。幻想的な身廊を堂々たる態度で歩いてくる。その姿は人ではなく、もっと高次元の存在のようで、少年が天から降臨したように見えた。 「俺は自分の心――魂を磨くために生きてる。いつも死ぬ間際で努力し続けてね。死ななければ、どんなことしてもいいでしょ?」  聖なる光で全身が包み込まれ、 「レベルの低い話はやめてよね。人を傷つけるとかそういうの。そんなのしないに決まってるだろう。そんなことしてるやつはいらない。死ねばいい」  キラキラと輝く羽根がふわふわと空から舞い降りる。 「今日生きるのもやっとの本当に困ってるやつを、一人でも多く助けるために、俺は生きてるけど? お前にはわからない話だろうね」  少年の心の中には(けが)れというものはどこにもなかった。それなのに、サラリーマンの男は醜く顔を歪め、バカにしたように笑う。 「ふんっ! 綺麗事ばかり並べて、夢を見てる子供の言うこと――」 「心を大切にしてないやつって、見た目で判断するよね」  聖堂の中で感じる神の畏敬。ビリビリとした空気が漂い、写メを撮っていた人々の手から携帯電話が次々に落ちて、床の上でひび割れてゆく。 「どういう――」  男が聞き返そうとすると、まわりの景色が激変した。     *  夕方のラッシュの人々はどこにもいない。騒音もない。ただ、地平線が遠くで半円を描く荒野が広がり、乾いた風が吹き荒ぶ。 「気づかなかったの?」  異様に背の高い少年の正体がわかると、サラリーマンは目が飛び出るのかと思うくらい驚いて、 「ひゃあっ!」  悲鳴を上げ、ガタガタと震え出した。 「お前、五百三段」  城の謁見(えっけん)の間で、玉座に細く長い足を組んで堂々と座り、命令を下す皇帝のように、何かの数字が言い渡された。  男は持っていたカバンも投げ出してひれ伏す。わらをもつかむように必死に懇願する。 「す、すみませんでした! どうか、それだけは! 何でもしますから」  言葉のアヤ。少年は人差し指を斜めに持ち上げ、ホストみたいに軽薄的に微笑む。 「そう? じゃあ、五百三十三段」 「それって、上がったんですよね?」  ピンクの細身のズボンにしがみついている男の前で、山吹色のボブ髪は横へ揺れる。 「違う違う。数が増えるほど下に行くから、もっと厳しくなんの」  何でもすると言うから、少年は導きという親切で余計に課したのだった。 「そんな〜〜!」  男は崩れ落ち、荒野の土に顔を埋めた。少年は長い足を折りたたんで、男の前にしゃがみ込む。 「お前が本質から逃げようとするからでしょ?」 「上げてください!」  土汚れと涙でぐしゃぐしゃの男の顔前で、山吹色のボブ髪は気だるくかき上げられ、 「時間切れ。もうお前に構ってる暇ないの。俺、今日忙しいんだよね」  一ミリのブレなくさっと立ち上がって、去っていこうとする。情けも同情もない。どこまでも無機質な少年。それに比べて、三十代の男は必死に、ピンクの細いズボンにしがみつく。 「いや、待ってください!」  つかまれていた手を振り払うわけでもないのに、少年の足は男の拘束からいつの間にかはずれていた。駅の改札横で何が起きていたのか、まだら模様の声が通達する。 「今がチャンスだったのを、お前が逃したんでしょ? だから、俺話しかけたんだけど……」  少年は最初から全力で真摯に話していたのである。それを無にしたのは、サラリーマン自身なのだ。  綺麗な唇から出てくる言葉は、ひどく冷酷非道だった。 「マキャヴェリズムだから、お前一人に構ってられないの。はい、ここまでです! もうどこかへ行っちゃってください!」  教師が授業を仕切るみたいに、強制終了した。 「あぁ〜……」  立ち上がる気力もないほどのサラリーマンから、宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳は後ろへ振り返った。     *  少年の腰が銀の柵に寄りかかると、景色はまた夕方のラッシュへと戻った。靴音。話し声。改札を通過する時の電子音。騒音の中で、少年のはだけた白のシャツは人探しをする。  申し合わせたように、右奥にあるロータリーへと続く夜空の下から、どこかずれているクルミ色の瞳をした女が入ってきた。百六十センチの瑞希は人ごみに埋もれ気味。  黄緑色の瞳は何の迷いもなく彼女に照準を合わせる、会ったこともない瑞希に。 「あの女? そう」  ターゲットが右から左へと動いてゆくのを眺めながら、皇帝で天使で猥褻で純真で大人で子供で矛盾だらけのまだら模様の声がつぶやいた。  チャージがないかもしれないという恐怖心。その鎖が瑞希を今やぐるぐる巻きにしていた。バッグのポケットに手を突っ込んだまま、人の流れという川に乗ってゆく。 (だ、大丈夫かな? 引っかかるかな?)  鎖骨が見えるほどはだけた白いシャツ。ピンクのズボン。それらに包まれたすらっとしていながら、最低限の筋肉しかついていない異様に背の高い少年。  急いでいるからこそできる、改札横という死角で、彼はすうっと消え去り怪奇現象を撒き散らした。  人々の注目は改札口。さらにはその先にある駅のホームへと続く階段。少年の山吹色をしたボブ髪が突然いなくなったことに気づく人は誰もいなかった。  瑞希の心臓はヘヴィメタルを熱演するようにバックバク。近づいてくる、改札という生死を分ける決戦の舞台が。  引っかかったら、後ろの人たちが別の改札へと移動することを余儀なくされる、チャージ不足。  自分の行く手を阻んで、バタンと扉が無情にも閉まった時のあの音。聞きたくないものだ。  他の人に多大な迷惑をかけ、頭を下げつつ後退し、急いでチャージに行くが、販売機の前で長蛇の列に並ばざるを負えない。  すなわち、電車を何本か見逃すという、無駄な労力と時間。後悔先に立たず。  審判の時がやって来た――  瑞希は右手でカードをしっかりと握り、青い画面の上に恐る恐る近づく。ゴクリ生唾を飲む。  左足はとうとう改札の中へ踏み出した。右足が進むとともに、判決を下す青い光の上に乗車カードがかざされる。  しかし、何も起こらなかった。歩幅を変えることもなく、振り向くこともなく、瑞希は改札を抜けてゆく。 (よっしゃ!)  人混み――大勢の中にいるモード。瑞希は声にも態度にも出さず、心の中でガッツポーズを力強く取った。そうして、次の目的地を探す。 (よし、山ノ足線……十五番線……!)  さっきロータリーでチビッ子に引き止められた以外、順調に物事が進んでいて、瑞希のテンションはうなぎのぼりになり、とうとう妄想世界へと飛ばされてしまった。     *  ババババババッッ!  轟音(ごうおん)に包まれている、軍用大型ヘリ。ピンクのミニスカートと紫のタンクトップに取って代わり、迷彩柄の上下に包まれた兵士になっていた。  大き過ぎてずり落ちてきたヘルメットを持ち上げると、瑞希の頬にはカモフラージュのペイントが引かれている。  ガガッ、シューッ!  無線機ががなり立てる。 「全軍に告ぐ! 今から敵地を占領する!」 「ラジャー!」  ピシッと敬礼をすると、吊りバシゴが地上へ向かって勢いよく降ろされた。  ガシャーンッッ!  次々に進んでゆく他の隊員に続いて、瑞希も慣れた様子で降りてゆく。あと少しで地面というところで、 「トウッ!」  かけ声を上げて、ぴょんと大地へ飛び降りた。 「幸運を祈る!」  無線機からのエールを受け取り、瑞希は背中に背負っていた筒状の武器――ロケットランチャーを構え、警戒態勢――腰を低くして走り出した。 「ゴーゴーゴー!」     *  現実での駅構内で人混みの間をすり抜け始めた。どこからどう見てもおかしな人になっている瑞希。  妄想している彼女のブラウンの長い髪が猛スピードで離れてゆくのを、見ている人がいた。  さっき消えたはずの、少年の黄緑色をした瞳は、改札脇の鉄格子のそばにあった。器用と言わんばかりの大きな手で、山吹色のボブ髪はかき上げられる。 「予想外のことはしない……。じゃあ、こうしちゃう!」  説教していたような威厳はどこにもなく、軽薄的でナンパな声が超ハイテンションで響いた。指がパチンと鳴ると、少年の姿は消えた。  しかし、誰もそれに気づくものはいない。少年がいたであろう床に、ガムの包み紙が白と銀の色を落としていた。  人々の靴が動く風圧で、小さな紙片は右に左にゆったりとしたスイングのリズムで揺れ動き続ける――
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