矢千深月

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「矢千、お腹空いてない?」 時計の針は夜の二十一時半を回っていた。事務所の営業自体は二十時に終了しているが、一日の報告書を作成しているといつもこの時間になる。来月の残業代が楽しみだ。矢千はまだこの会社の正確な支給額が分からない。来月が記念すべき初給料なのだ。 それを支払うのは社長だが、ボーナス等の査定をするのは直属の上司。ここの所長。今目の前にいる青年、髙科要(たかしなかなめ)だ。 「腹は減ってません。さっき新発売の激辛カップラーメン食べながら仕事してたんで」 「またインスタントか。栄養失調になりそうで心配だな」 小声で呟くと、髙科は苦笑して矢千の腕を引いた。扉の前で立ち尽くしていた彼を奥のソファに寝かせ、柔らかい髪を手ぐしで梳かす。 「仕事はどう。慣れた?」 「狂ったお客様に引っぱたかれたり、髪を掴まれる以外は天国です。あ、あと上司のセクハラを除いて」 二人は無言で見つめ合った。もう職員は退勤し、社内は静まり返っている。二人が所在する所長室だけが明るく照らされ、テレビの音で賑やかな空間をつくっていた。 先に会話の沈黙を破ったのは髙科だった。 「でも、やっぱり向いてるんだね。君が対応した客は皆大満足で帰ってる。勇気を出して来て良かった、次も矢千さんでお願いします。ってね」 ソファに寝転がる矢千の隣に腰掛け、髙科はネクタイを緩める。 「恋愛コンサルタントじゃなくて、これからも肩書きはカウンセラーでいこうか」 「男性専門の、ですよね。LGBTQに特化した資格とかあるんですか? もしあるなら、俺って犯罪者になっちゃいません!?」 「大丈夫。持ってないのに所有者だと偽って働かせてる会社はたくさん知ってる」 矢千は内心舌を出した。合法的に、と言ったのはどこの誰だか。極めて悪質である。経営側に回る人間は金儲けさえできれば良いのか。 しかし多少の不満はコーヒーと一緒に飲み込む。矢千は髙科に借りがあった。ひとつは、現代でも特殊な同性専門コンサルタントとして雇ってもらっていること。もうひとつは身の回りの生活費全般を髙科が引き受け、このオフィスで寝泊まりしてよい、という権利を与えられていること。 矢千は髙科に徹底的に私生活を管理され、外出すら彼の了承を得ないといけない。そんな缶詰め状態でも、インドアな矢千はそれほど苦ではなかった。おまけに三食昼寝付きとくれば、こんな高待遇の就職先はない。 髙科は自分の家があるにも関わらず、矢千と同じでよくこのオフィスに寝泊まりしている。仕事を家に持ち帰るのが嫌なのかもしれないが、仕事一筋の人間に違いなかった。
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