8人が本棚に入れています
本棚に追加
「またあの子がいなくなっちゃったのよ。いつもひとりで出歩いてしまって。どこで遊んでいるのかしら。お友達のマサ君のところかしら。ランドセルはあるから一度帰ってきてはいるのよ。小学校に上がったばかりで行動範囲が広がっているといっても、もう日も暮れてしまうし、夕飯の時間になっても戻らないなんて、心配で心配で」
おぼつかない足取りの老婦人はそう私に嘆いた。
「わかりました。一緒に探しましょう。大丈夫ですよ。きっと見つかります」
今日も私はつとめて穏やかに彼女へそう慰めの言葉をかけた。
身体を横から支え時に背中をさすり、共にゆっくりと廊下を歩く。スリッパをぱた、ぱた、と鳴らしながら。中庭の見える談話スペースを通りすぎ、一周して自室へ戻る頃には彼女も幾分か落ち着きを取り戻す。気が済まずにもう一周することもあるけれど、最後まで付き合うことにしている。30分とかからないのだから。
たくましかった腕はずいぶんと細くなり、ふと手首をつかんでみれば私の親指と小指がやすやすとくっつき余ってしまうほどだった。腕だけじゃない。肩も脚も何からなにまですべて。わかってはいた。わかってはいたが。いつからだろうか。うすぼんやりとした私の記憶の中の彼女の姿を追えば、かつてのこの人の背中は大きかった。大きく感じていた。そう、あれは、夕日ヶ丘公園からの帰り。駅前商店街のアーケードを抜けた先に、買い物袋を提げている見慣れた背中を私が見つけて、飛びついた。そうしたらトミマツ精肉店の揚げたてコロッケの匂いがしたんだ。すぐわかった。私の大好物だったから。買い物袋の中をのぞけば、ビンゴ!ーーそれが今は再開発であの一帯はなくなってしまっている。歩道が整備され緑化運動も盛んで綺麗な白色のマンションが建った――。
私はそこで一旦巻き戻しからの早送り、いや今風には早戻しに早送りしたビデオテープとDVDのような、たぐりよせた記憶に停止ボタンを押し電源を落とすと、HDMI画質へと変遷をとげたクリアな視界の現在のチャンネルへと意識を切り替えた。
いいことを思いついた気がして、話しかけた。壁の手すりと私の二の腕あたりにつかまり、つま先に穴の開いた柔らかなスリッパで歩みを進める、ピンク色のパジャマ姿の傍らの人へ。
私の提案であり要求はきっと受け入れられないだろう。彼女の耳にはそもそも届かないかもしれない。それでもいい。
「久しぶりに手をつないで帰ろうか。お母さん」
呟くように、そっと、問いかけた。前を向いたまま視線を合わせずに。私は空いている方の手で彼女の掌を包み、つかまっていた私の二の腕からそっとほどく。リハビリ室を横目に通り過ぎれば部屋はもうすぐ。あの時のような私達の帰り道がそこにはあった。
最初のコメントを投稿しよう!