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『コツ、コツ、コツ、コツ
カチ、カチ、カチ、カチ』
歩いているうちに、彼女の足音に少し遅れて規則的な音がすることに気が付いた。音は彼女が動くと鳴り、止まるとやむ。街灯に青白く照らされた明里の頬には、一筋の汗が伝った。そういえばさっきから、視線を感じる気がする。この不安感は思い過ごしではないかもしれない。焦ったのか、彼女の歩みは速くなる。
『コツコツコツコツ
カチカチカチカチ』
追っ手も早足になったようだ。しかし、明里も無策だった訳ではない。彼女は急に立ち止まり、振り返った。道には誰もいなかったが、影が素早く電柱の裏に隠れたのが目に入った。
彼女の心臓は強く脈打ち、耳元の血管では、蒸発するような音を立て血液が勢いよく流れている。彼女は迷った。あの電柱の向こうに恐らく犯人がいる。ただ、もし相手が凶器を持っていたらどうしよう。もし襲いかかられたら抵抗できるのだろうか。そういった恐怖が頭の中を駆け巡る。
明里は振り払うように首を振った。逃げていては何の解決にもならない。こんなに絶好なチャンスを棒に振ってはいけない。幸い、防犯ブザーは手元にある。危ないと思ったら押せばいい。自分の目で犯人を確認しなければ。彼女は言い聞かせるように小さく声に出しながら自分を励ました。
重い足を気力で持ち上げ、電柱に一歩ずつ近付く。心臓の音が随分うるさい。自分の足音すら聞こえないほどだ。電柱から冷気でも出ているのだろうか。近付くにつれ、全身に寒気が走る。震えもどんどん酷くなる。一度止まってしまったら、その場にしゃがみこんでしまうだろう。
「歩け。歩け。」
明里は涙と汗をにじませながら、震える声で自分を奮い立たせる。
蛍光灯の光に足を踏み入れ、あと一歩で電柱に触れるというところで、電柱の裏から影が飛び出した。彼女は声にならない叫びをあげ、しりもちをつく。しかし、彼女の意思は強かった。へたり込みながらも、その影の正体から目をそらさなかったのだ。
「へ。」
彼女の口からは思わず気の抜けた音が出た。飛び出してきたのは一匹の黒猫だったのだ。黒猫に見つめられ、彼女の体からは一気に力が抜けた。彼女は気の抜けた勢いに任せてそのまま四つん這いになり、電柱の裏には何もいないことを確認した。
「もう。おどかさないでよ。」
そう猫に語りかける彼女の目からは、大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちていた。腰が抜けてしまった彼女は、地べたに座り込んだまましばらく泣いていた。暗い道で蛍光灯に照らされて泣く彼女の姿が、月からは舞台の1シーンのように見えていたかもしれない。彼女のすすり泣きだけが夜道に響いていた。
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