常夜のレターボックス

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***  ――バカバカバカバカ。  歯茎の裏にまでびっしりと書いてやりたい気分だった。 眠り姫のベッドに腰かけて、鼻歌の代わりにベッド脇を(かかと)で蹴る。  確かに昨日は休みだった。ウキウキ気分で定時に帰った。待っていたのは、やはり寝顔だった。 濡れ布巾を顔に乗せなかった自分を褒めたいくらいだ。  疲れてるのは分かるよ。 不規則な勤務は大変だろうよ。 だけど婚約者じゃないか。 長い間寝潰してきたんだから、そろそろ両目かっぴらいて起きるべきじゃないのか。  のどぼとけの目立つ無防備な首を、この両手に納めなかったことに感謝してほしい。 ふて寝した私の腕に『ゴメン』と書く暇があるなら、キスでもして起こしてほしかった。 「……ひどいよ」  私たちが一緒にいる意味はあるのだろうか。 恋人をこれだけ待たせておいて、Rはなにも思わないのか。 一言でも、たとえばこの『ゴメン』だけでも、私は彼の口から聞きたいのに。 「……バカ……」  つるりとした綺麗な顔。 瞼さえピクリともしない。 このまま待ち続けて、私は何を得るのだろう。 「起きろバカー!」  ――『もう全部、おわりにしよう』。  彼の腕にそう書いてやりたかった。 そう書こうとした。 けれどできない。 やっぱりまだ私は、彼と一緒にいたい。 涙が次々と溢れてきて、とうとうRの顔に零れ落ちた。 「あ……」  彼が、動いた。  顔に涙を受け、彼がわずかに表情を変えた。 Rの右目もまた、涙で滲んでいる。 「だめっ……!」  私はあわてて立ち上がった。 メイクポーチをひっくり返し、綿棒を探す。 「うそ、どこに……」  時間がない。 すぐに探さなければ。  ――私のベッドサイドに置いてあるかも。  一瞬躊躇した。 が、暗がりの中で寝室のスイッチを探すよりもこの方が手っ取り早い。 焦燥感に駆られながら窓に近づいてカーテンを握り、そして、一気に開け放った。 「あった!」  燦々(さんさん)と降り注ぐ光の中、透明なプラスチックケースはすぐに見つかった。 綿棒の束から一本を引き抜く。 彼のベッドに戻ると、その顔を確認した。  A四のコピー紙に印刷された、彼の寝顔。 その右目部分が、水分を吸って(にじ)(たわ)んでいた。 その下に重ねられた手紙も、わずかに被害を受けている。 「……ああ……」  ただの紙になった彼から、丁寧に涙を拭う。 私たちが二十六歳だったあの日。 Rは欠けた月のような笑みを残して機上の人となり、そして、私の前から『しばらくのあいだ』姿を消した。
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