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――バカバカバカバカ。
歯茎の裏にまでびっしりと書いてやりたい気分だった。
眠り姫のベッドに腰かけて、鼻歌の代わりにベッド脇を踵で蹴る。
確かに昨日は休みだった。ウキウキ気分で定時に帰った。待っていたのは、やはり寝顔だった。
濡れ布巾を顔に乗せなかった自分を褒めたいくらいだ。
疲れてるのは分かるよ。
不規則な勤務は大変だろうよ。
だけど婚約者じゃないか。
長い間寝潰してきたんだから、そろそろ両目かっぴらいて起きるべきじゃないのか。
のどぼとけの目立つ無防備な首を、この両手に納めなかったことに感謝してほしい。
ふて寝した私の腕に『ゴメン』と書く暇があるなら、キスでもして起こしてほしかった。
「……ひどいよ」
私たちが一緒にいる意味はあるのだろうか。
恋人をこれだけ待たせておいて、Rはなにも思わないのか。
一言でも、たとえばこの『ゴメン』だけでも、私は彼の口から聞きたいのに。
「……バカ……」
つるりとした綺麗な顔。
瞼さえピクリともしない。
このまま待ち続けて、私は何を得るのだろう。
「起きろバカー!」
――『もう全部、おわりにしよう』。
彼の腕にそう書いてやりたかった。
そう書こうとした。
けれどできない。
やっぱりまだ私は、彼と一緒にいたい。
涙が次々と溢れてきて、とうとうRの顔に零れ落ちた。
「あ……」
彼が、動いた。
顔に涙を受け、彼がわずかに表情を変えた。
Rの右目もまた、涙で滲んでいる。
「だめっ……!」
私はあわてて立ち上がった。
メイクポーチをひっくり返し、綿棒を探す。
「うそ、どこに……」
時間がない。
すぐに探さなければ。
――私のベッドサイドに置いてあるかも。
一瞬躊躇した。
が、暗がりの中で寝室のスイッチを探すよりもこの方が手っ取り早い。
焦燥感に駆られながら窓に近づいてカーテンを握り、そして、一気に開け放った。
「あった!」
燦々と降り注ぐ光の中、透明なプラスチックケースはすぐに見つかった。
綿棒の束から一本を引き抜く。
彼のベッドに戻ると、その顔を確認した。
A四のコピー紙に印刷された、彼の寝顔。
その右目部分が、水分を吸って滲み撓んでいた。
その下に重ねられた手紙も、わずかに被害を受けている。
「……ああ……」
ただの紙になった彼から、丁寧に涙を拭う。
私たちが二十六歳だったあの日。
Rは欠けた月のような笑みを残して機上の人となり、そして、私の前から『しばらくのあいだ』姿を消した。
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