ひとつだけの夜

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 酔っぱらうと、匂いを嗅ぎ分けられなくなるし、理性にも麻酔がかかって寛大になる。まぁなんでもどんとこい、そんなアルコールの力に脱帽する。  そういえば、トイレの床にへたりこんだまま、どれくらい時間がたったのだろう。  大学に入ってから何度目かの参加で、慣れてきた頃の合コンだった。そこに、好みと言えるような少し年上の、二枚目よりの三枚目がいた。私は自己紹介の後からずっと視線を送っていたその彼に、二次会のカラオケボックスで腕を引かれた。願ったり叶ったりだった。酔っ払ったみんなの目を盗み、こっそり抜け出すことの愉快さったらない。私の腕を引く彼の河童手が、内蔵をきゅっと捕むような、くすぐったい高揚感を教えてくれる。手を繋いだまま走って、走って、笑って、走った。  息を切らして立ち止まった先にあったのは、丼ぶりもののチェーン店だった。そこは繁華街を過ぎた辺りで、雑音が止み、鈴虫の鳴き声が夜の世界の主役だった。涼やかな風が火照った頬に心地良い。  彼が言う。 スタミナつけておこう。  私は答える。 なんのスタミナ?  なんて。   その店のカウンターに座り二人で掻き込んだマグロの漬け丼が、そのまま白く艶やかな陶器の滝の渦へ消えていくのを見た。水から弾けるイオンの匂いは感じるのに、体内から出てきたものは無味無臭だった。マグロがほとんど形そのままだった。丸呑みに近かったことに驚く。彼はお酒を楽しませるのがとても上手い。甘い言葉で虚栄心をくすぐられて、つい。そう、さらさらと、次々と、喉に流してしまった。ハイボールにカルアミルク、白ワインにレッドアイ、あとはなんだろう。アルコールのお陰で喉の苦しさも感じなかった。強いて言うなら、視界が画面のように揺れるのと関節がだるいけれど、それ以外に不自由はない。きっと脱水の初期症状だ。水か、スポーツドリンクの類いを飲まなければならない。  ゆっくりと立ち上がり、足や肩が何かにぶつかりながらも、壁をつたって外に出た。  寮の共同トイレを出てすぐのところに大きな壁があった。いや、牛乳でも飲むみたいにして腰に手を当てた彼が仁王立ちをしていた。  大丈夫?と、温くなったミネラルウォーターを差しだす。余裕の優しい眼差し。でもすでにTシャツとボクサーパンツの姿で準備万端。意思表示が明確で潔い、というかおおっぴらで清々しい。清廉潔白とはむしろこのことを言うのではないか。やけにぴんと伸びた背筋からその意気込みがよくよく伝わってきて、私は思わず笑ってしまう。彼には笑わされてばかりだ。口の端から零れた水が顎先に滴った。私は手の甲でぬぐう。けれど、次々に涌き出る笑いが止まらない。愉快だ。  たのしいから、もちろんいいよ、と言った。  そもそもこんなに酔わせなくたって、あなたを既に許していたよ、と思いながら。  愛と言えるほど好きではないけど(地震などが起きたときに真っ先に思い出さないと思う)、でもいつか信頼関係が出来たら素敵だとも思う。女子禁制の会社の寮にわざわざ忍び込んだことも、思い出のひとつにしたい。  きっと背負うものがない今だからこそ、踏み込めるんだってわかっている。お互いが自分のために楽しむこともわかっている。  私は私のやり方で、色んなことを試したい。例えば明日の朝の私は、今を後悔するのだろうか。 「正か誤かの判断以外の価値観を増やすのが、人生の醍醐味だよな」  眠りに落ちる数秒前に、彼は私につぶやいた。  そんな何気ない言葉が意外と、未来で座右の銘になっていたりする。
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