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プロローグ
万物の始原は水である。
彼はそう世界を定義した。
それは結論を得るための鍵であり、学問の門を開く術でもある。
彼にとっての導きである思考を結実し、ただ好奇心を現実にするためにこの場を用意したのだ。
そこは何もない、天井に深い海のような空が広がるだけの荒野であった。
乾いた、しかしそれが故清涼たる空気と、それすら潤す恵みを湛えた空、これだけあれば彼にとって十分なヤコブの梯子《はしご》となる。
彼は踊る心の赴くままにマントの中からスッと右手を出した。
幾何か前に起こった小さな興味を発展させて半世紀以上の時を費やしてようやく至った結論を手の中から空に放つ。
それは魔術文字と呼ばれる、世界の理に干渉するためのピースである。現存する言語のどれにも似た形をしているが同じものは世界のどこを探しても存在しない。
人間には文字として視認される宇宙の源流から零れてきた神の力だ。
空に還ったそれは天上の蒼に水に溶け、少しの波紋を残してやがて消える。
彼の目に見えたのはその現象だけだ。
何も起こらない。流れる雲もゆっくりと漂っていて実に穏やかな晴れ模様である。天気も荒れる様子もない。
滑らかなに自分の頬を滑る風を感じながら彼は確信した。
ー成功したー
訪れる変化を明確に感じるためにそっと目を閉じる。
そして、すべては変わった。
肌がチリチリ焦げるような感覚を覚えて彼は瞼を開ける。
彼は透き通るような湖に立っていた。周囲はみずみずしい木々に囲まれ鬱蒼としていた。
さっきまでいた荒野が幻のように清涼とした光景が広がっている。
たった一つの呪文のためにここまで世界は変わるのか、と男は思わず感嘆に浸ってしまう。
頬に触る柔らかな風の温もりや踏みしめる水面の冷たさは本物のそれと大差ない。
だが、この風景は紛れもなく幻想であった。
その風景から感じる膨大な力。俗にいう魔力というものだが、現世よりさらにこの場所は密度が濃い。
一見すると本物のようだが実際は微細な言葉でできていた。
塵のようなそれらは天から生まれて、地に落ち消滅する。
そして、消滅と再生を繰り返しながら、絶えることなく世界を構築し続けた。
その光景を賢者は美しいと思う。
ここは扉に過ぎないが、それでも人間には十分すぎるほどの力で満ちていた。
彼は天へ向け、真っ直ぐに杖を掲げる。
ーさあ、扉を開こうー
彼は宣言する。たった一言が鍵となり、世界が開くという彼の仮説の証明の為に。
好奇心に心を惹かれ、彼はその呪文を口にした。その言葉に呼応するように世界が制止する。
その静止した世界の中で賢者はふとあることに気づいた。
彼しかいないはずのこの場所に誰かの存在、彼に注がれる視線を感じた。
知らない人間のあるはずのない驚嘆の気配。不思議と不快感はなかった。
それどころか、まるで疎遠になっていた旧友にでもあったかのような暖かな心持ちで満たされていく。
賢者は微笑む。そして、好奇心の導くままに振り返る。
そこには誰もいない。しかし、確かにそこには人が存在しているのが彼には解かっていた。世界を遮断する見えない壁が自分達を隔てているのだ。
意識を集中させてこの世界と繋がる様に第一声を発する。
それはただの言葉である。しかし魔法とも呼ばれるそれは隔てるものを絆す鍵となった。
賢者はますます楽しくなった。さて何を話そうかと思いながら、視線を少しだけ上げる。
透明な世界越しに彼女たちと目があった。
かすんだ空のような晴白と夜の海のような深い漆黒、対になる双眸から感じられる小さな子どもの好奇心が、私にはひどく懐かしく思わず微笑んでしまった。
「やあまた会ったね」
彼の言葉に四つの瞳がさらに丸くなる。
どこまでも無垢な深淵の子らに私は誘うように手を差し出した。
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