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「何でこんなところに連れてきたんだよ?」
俺の問いかけに、沙也加は長く伸ばした髪をらさりと夜風に揺らし、小さく笑った。
「だって、ここの湖、とってもきれいでしょ? もっとも名前は池だけど。鏡ヶ池っていうの」
「知ってる。わざわざゴムボートまで持ってきて、夜中にこぎ出すか?」
ゴムボートのロゴを見つめていると、なんだか落ち着かない気分になる。
「あれ、恭一くん知らないの? ここに伝わる伝説」
その言葉に、俺はドキッとしてしまう。
「伝説って……確か、女神が髪をとかすのに使っていた鏡をこの湖に落としたとかそういうのだろ?」
「うん、そう。嘆き悲しむ女神の姿を見て、湖が女神の姿を水の面に映してあげて、それで女神が泣き止み、女神と湖は結ばれたっていうロマンチックな伝説ね」
「ああ、それならこのあたりに住むやつならみんな知ってるだろ。小学校の郷土研究とかで大概やるし」
さざ波が広がるように揺れる心を抑えながら、俺は相づちを打った。
「うん、でもそれ以外にあるんだよ。伝説、っていうかおまじないみたいなやつ」
クスクスと笑うと、沙也加は白い手を湖に浸しぴちゃりと水を跳ね上げた。月の光を受けてキラキラ光るしずくが飛び散り、湖に波紋を描く。
「この鏡ヶ池の真ん中で、満月の晩の真夜中、愛する人と一緒に水面に映ると、二人は一生結ばれるってやつ」
「……女子が好きそうなやつだな」
「だから、こうやって恭一くんにつきあってもらってるんでしょ。ありがとね」
唇がきゅっと上がって、頬にえくぼが浮かぶ。世界一かわいいと思ってる笑顔だけど、今夜はいつもより口紅の色が濃い気がした。
「もうすぐ真ん中だね」
「ああ……」
「ここって、浅いところはすごく透明度あるよね。青くて、底に沈んだ流木がきれいに見える。底の砂が白いのも、青さをさらに強調して、怖いくらいにきれい」
「でも途中から急に深くなるから遊泳禁止なんだろ。それに、真ん中は深くて水温もほとんど変わらない……常に低温で魚もいない、沈んだ生き物の死骸も腐らずそのままでいる、なんて話もあるな」
「天然の冷蔵庫、って訳だね」
「冷蔵庫のてっぺんでおまじないか……」
「そういうロマンのないこと言わないでよ。もー」
唇をとがらせて、沙也加は俺にボートを漕ぐよう促す。
「はいはい、お姫様……この辺が中心か?」
「そうだね。とっても深そう。底が全然見えない」
「おい、そんなにのぞき込むと危ないぞ。落ちたら助けられるかわかんないからな」
「大丈夫、落ちたりなんてしないから。私は」
笑顔で俺をまっすぐ見つめ、沙也加は言った。
「私は、落ちたりしないよ。キヨラみたいに」
「何言ってるんだよ……」
「私ね、お兄ちゃんがいたの。でも3年前から行方不明なんだ」
濃いまつげに縁取られた瞳は、どこかで見たことがあるような色をしていた。
「行方不明になる寸前、お兄ちゃんは私に教えてくれたの。恋人ができたって。お兄ちゃん、ゲイだったから、親とも折り合い悪くて、すごく悩んで……でも、心から愛せる人ができたって幸せそうだった」
「それで……そのことと、今日ここに来たことと、なんの関わりがあるんだ?」
無意識に後ずさりそうになるのを必死でこらえながら、沙也加に微笑みかける。
「お兄ちゃんがいなくなったのは、3年前の満月の晩。永遠の愛を恋人と誓うって言ったきり、私のところに帰ってこなかった」
沙也加は水面ににっこり微笑みかけた。
「お兄ちゃん……そこにいるよね? 3年前の約束、今果たすことができるからね」
「おい、何を言ってるんだ、沙也加……」
「知ってるんだ、私。あなたがお兄ちゃんを……清良を殺したこと。この鏡ヶ池の真ん中にボートで連れ出して、突き落としたの」
「冗談じゃない! 何で俺がそんなことを……」
「お兄ちゃんが邪魔だったからでしょ? ほんの気まぐれで手を出した男が本気になって怖くなった。恭一君はホントはゲイじゃないもんね」
「当たり前だ! 俺は沙也加みたいなかわいい女の子が……」
「お兄ちゃんはかわいかったよ。背もあんまり高くなくて、髪も女の子みたいに伸ばして、かわいい服が好きで……だから、最初は女の子と思って手を出したんでしょ?」
まるで見てきたかのように、沙也加は俺の過去を語っていく。
「持て余して、ここに沈めた。そうでしょう?」
「……待て。あいつには妹なんていなかったはずだ。それに、さっき帰ってこなかったって言ったよな? あいつは親元を離れて一人暮らしをしていて……あいつの家にいたのは……」
「そう。それはとっても些細なこと。大事なのは、お兄ちゃんがあなたを愛していて、そしてあなたがお兄ちゃんを殺したこと」
「……俺をどうするつもりだ?」
「それを決めるのは、私じゃない。お兄ちゃんよ」
「は? あいつはとっくに死んでるだろ! この湖に沈んでいくのを俺はこの目でちゃんと……」
言いかけて、俺ははっとする。沙也加の挑発に乗って、自分の罪を告白してしまったことに動揺していた。
白い顔が驚いたように目を見開いて、俺を見ながら、青い水の中に消えていくのを。
大きな泡がぼこりと最後の叫びのように浮かび上がって、それから何も浮かんでこなかったのを。
今使っているボートが忌々しく感じるのは、あいつをここから突き落としたときに用意したボートと同じメーカーのボートとだということを。
そんなことをぐるぐると頭が巡っていた。
「満月はね、愛の願いを叶えてくれるの。たとえそれが死者のものでも」
「おい、待て……まさか」
ぴちゃり、とボートの縁に何か濡れたものが音が張り付く音がした。
「お兄ちゃんは待ってる。あなたとの永遠の愛の時を迎えられることを」
「うそだろ……そんなこと……」
ずるり。細く青白い腕が俺の足首をつかんだ。
俺を引き寄せるようにしながら、それはボートの縁から這い上がろうとする。
「お兄ちゃん、やっと……願いが叶うね」
「うわあああああ!」
ボートの上に上半身をのせてきたのは、紛れもなく、清良だった。肩まで伸びた髪、華奢な肩、薄い胸、それから、肌に張り付く白いワンピースもあの日のまま。
「やめろ、近づくな! 化け物!」
「お兄ちゃんは化け物なんかじゃないよ。あんたの心の醜さが、鏡ヶ池に映ってそう見えてるだけ」
「確かに俺はあいつに永遠の愛を誓おうって、ここに呼び出して、ここで突き落とした……だったら、死んでるだろ、3年前に」
「そうね。でも……お兄ちゃんの時間は3年前から止まってる。この鏡ヶ池の底で。ほら、待ってるよ」
そう言って、沙也加は俺の背中を押した。驚くほどあっけなく、俺の体はボートから落ち、派手な水音を上げる。
「うわっ……沙也加!」
「ばいばい、恭一くん。お兄ちゃんを……幸せにしてあげてね」
沙也加の瞳は金色に輝いていた。
それが俺が最後に見たものだった。
沙也加、さやか……どこかで来たことがある名前だ……たしかあいつには……ああ、もう息が苦しい。
下を見ると、3年前に殺したはずの恋人が俺の足にすがりつくようにして、微笑んでいた。
見苦しくゴボゴボと浮かび上がる泡を見ながら、私はようやく大きなため息をつくことができた。
「お兄ちゃん……これでよかったんだよね」
自分がいじめられる立場だったから、弱かった私を見捨てられなかったんだろう。
僕の妹、っていつでも私をかわいがってくれた。
「お兄ちゃんがいなかったら、私は生きてなかった。もう……私も生きてなくていいよね」
月を見上げて、大きく泣いた。
そして鏡ヶ池に飛び込んだ私の姿は、すでにもう人の姿ではなかった。
月は真南を少し降り、それでも白く柔らかな光を水面に注いでいた。
漕ぐ手を失い揺れるボートだけが漂う湖面は、まるで鏡のように滑らかで、眠っているようにも見えた。
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