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財布から千円札を抜き出した俺に、我に返った彼女は「できるよ。毎日練習したら」といとも簡単に言ってのけた。
「まずはね」
そう言って、コードをいちから教えてくれた。後々にC7もBフラットも目で追わずとも弾けるようになったけど、元を辿ればこのときに「こうだよ」と何度も手本を見せてくれた彼女がいてこそだ。
「ありがとう。次はいつここにいるの?」
「えっと、次は」
ぼろぼろの手帳を広げた彼女はカレンダーでも見ているのか、じいっと一点だけを見つめていた。都合が悪いのかなと思っていると、顔を上げて「えっと……だからね、その」俺を見つめた視線を落として、言葉を淀ませた。
「どうしたの?」と尋ねると少し間を置き、意を決するように彼女は言う。
「コンビニに行くでしょ?ウォークマンは駄目だよ」
言葉の意味を理解しかねる俺の態度が気に入らなかったのか、せっせとお布施箱とギターケースを片付けた彼女は「行くよ」と袖を引っ張ってきた。わけがわからないまま、けれども確かに立ち寄るつもりだったコンビニ近くに達したところで、彼女が起こした行動の意味を俺は思い知る。
「こっち!」
細い横道へと彼女が俺を抱えて飛び退き、直後に猛スピードで車が道路を通り過ぎていった。角を曲がり切れずにガードレールにぶつかって轟音を鳴らすと、大きくへこんだ車の中で運転手がハンドルにうっ伏している。
怒りよりも先に携帯電話で救急車をコールしている俺がいた。次いで110番にも通報してすぐさま現場は騒々しくなり野次馬が集まってくる。
数時間かかってようやく解放されたときにはギャラリーも退散していた。隣にいた彼女は何度かみ殺していたかわからない欠伸を解放感に任せて両腕を広げている。
「ね、コンビニいかない?」
すごい度胸だと思いつつ、もう自炊する気も起きなかった俺は賛同して目的地のコンビニへ入ることにした。適当に選んだ弁当を持って缶チューハイの品定めをしていると、おにぎりと発泡酒を手に持ちながら彼女はにかっと笑みを見せる。
「ねね、この辺でゆっくりできる公園ない?寝床も兼ねれるなら嬉しいな」
残念ながら近辺に公園はないし、あるのは目の前に広がる海岸沿いだけ。足場もろくに見えないし、テトラポッドに背を預ける行為が寝床とも言い難い。
「家は?」「ないよ」「ホテルは?」「そんなお金あると思う?」
店を出て横並びに歩く彼女を見ると、右肩にギターケース、左肩にボストンバッグを抱えていて、かわいい顔立ちに隠れてはいるけど髪は不揃いにぼさっと伸びている。まるで家出少女の装備が彼女に妙な説得力を持たせていた。
適当に地べたで談笑して別れる。それでもよかったと思う。しかし命の恩人を前にそれはいただけない。かといって給料日前の時期にホテル代を提供するのも少し辛い。
ちょっと勇気のいる決断だけど、思い切って提案することにした。ポケットからキーケースを取り出すと、鍵を取り外して俺は彼女へと差し出した。
「俺は家の外でも寝れるから。部屋で寝なよ」
「え?え?」
さすがに面食らったのか、彼女は動揺の色を隠せない。そりゃそうだ。よくよく考えたら出会って数時間の初対面同士だ。普通に考えてこの展開はあり得ない。
普通の人が相手ならこんなことはしなかった。不思議なことに既に知った仲な気がして「別にいいか」って感覚が生まれていた。
「そんな、さすがに悪いよ」
「クーラー、ガンガンに効くよ」
「くっ」と彼女は思い悩む。秋を目前にしているとはいえ、夜中ですら蒸し暑さが残る八月の終わりだ。外から聞こえる虫の音色やさざ波の音では納涼は得られない。
「いっこだけ条件」
「いいよ」
「じゃ、ご厄介になります」
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