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epilogue
顔を反らすと、いつも通りの彼女がそこにいた。
俺を挟んで無茶な姿勢でギターを抱えて、それでもなんとかコードを弾こうとしていた。
「久々に弾くと難しいよね。やっぱ音楽にブランクは禁物だね」
「しょっちゅう、弾いてたじゃんか」
「もうひとりの私はね」
未来人の次は分身か。この世の中、どうなってんだ。
「ある日、私とうり二つな人が突然目の前に現れてさ、運命の人を助けたいから力を貸してって言うの。その子は君を助けて、共同生活をはじめた。そして彼女に言われるまま、その日から朝以外は私が入れ替わって君と一緒に過ごした。彼女が導いてくれた男性は本当に運命を感じる、毎日一緒にいたい人だった。私だけ、ほんとにいいの?って聞いたら自分は一年後で行き止まりだからって、あの子、そう言ったんだ」
鼻をすすりながら、袖で彼女は顔を覆った。
「本来の君は交通事故に遭って、一年後、脳死で亡くなったの。目の前で助けられたなかったことを悔やんだあの子は、植物人間だった君を面会時間が終わるまで毎日一緒にいたって」
しゃくり上げながら、彼女はもうひとりの自分について語り続けた。
予言を信じ込ませるために彼女はタオルケットの話題を振った。毎日ベッドの傍で尽くしてくれることを俺の母親に感謝されて、住まいがないならと俺の部屋を貸してもらっていたらしい。だからこそ、タオルケットも台所も、洗濯機のことすら知り尽くしていた。
そして一年後、脳死で絶命した俺の後を追って、この海の中をひとり歩いていった。
息苦しさが過ぎて意識を失った彼女は、目が覚めると何故か一年前の夜に戻ってきていた。わけがわからないながらも、急ぎ駅前で歌うもうひとりの彼女に事情を説明して立場を代わってもらい、あの日以来、今日まで朝の時間だけを俺と共にしていた。
「じゃあ……さがしものって」
「あの子にとっては、しあわせの形だったんじゃないかな。『バトンタッチ』って言って、服が詰まったボストンバッグを渡されたんだ。意味なんてなかったと思うよ。でも、自分を消すための儀式をしたかった気持ちは、痛いほどわかる。だからさ、あの子の分も私、笑うんだ」
バッグからびしょ濡れの婚姻届を取り出して、彼女は涙をこぼしながら無理やりにいっと笑う。
「君のさがしものは?」
「私?私はね」
かばんの中をごそごそ回して「あった!」と当たりくじをつかむように取り出したもの。
「はんこ?」
「そう、はんこ。親戚に総当たりで聞いてみたらさ、印鑑と私の個人通帳だけ預かってるって教えてくれて。遠かったけど取りに戻ってたの」
にじんだ婚姻届には彼女の苗字の印鑑も押されていた。届け出は百均ショップのはんこでもよかったのに。なんて言うとふくれるから黙っておこう。
「あの子はきっと、天国でもうひとりの君と出会って、唇を重ねてる。ねえ、年に一度でいいから、ここにお花持ってってあげよ。一緒に、手、合わせてほしいな」
当然だよ。ありがとう。本当にありがとう。もうひとりの君がいたから、俺は君と出会えた。
「手を合わせて、ちゃんと祈ってね。俺も君のこと好きだったよって」
「妬くなよ」
「なんで自分に妬くのさ……でも、私より愛しちゃだめだよ」
「わがままだな」
「わがままだよ。君の一番は私なんだから」
あたたかい思いに可愛いわがままを添えた彼女は、ギターを寄せてフィンガーボードをまじまじと見つめる。
「久々過ぎて忘れちゃった。ね、コードの弾き方教えてよ」
悪戯っぽく笑う彼女に、一番最初に、伝えたいコードがある。
すべてのはじまりだった、C7を。
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