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古いマンションの一室。 残暑のきつい、夏の日の正午前。 嫌々ながらも玄関のドアを開け、クーラーの効いた部屋から出た途端。 外の廊下部分に倒れている『ヤツ』を見つけた。 ……一見、その姿はもう天に召されたようにも見える。 合掌のひとつでもしときます? そんな必要はないです。何故なら。 「ギャギャギャギャギャギャギャギャ」 「キャァァァァ!!! セミファイナル!!!」 仰向けになって炎天下で転がっている『ヤツ』に、サンダル履きの指先をそっと近づけた途端。 『それ』は転げ回って奇声を上げた。 夏の半ば頃からどこででもよく見られる現象、通称・セミファイナル。 道ばたに落ちているセミが死んでるのかと思うと、突然動き出してビビらされたことある人。多いでしょ。 アレですよアレ。 ちなみに足を閉じてるヤツはホントに死んでてデッド、開いてるヤツはまだ生きてるのでアライブです。 どうでもいい豆知識ですけど。 8月。都心の炎天下。 都心とはいっても、海外の都市部に比べたら東京は緑が多い方だと思う。 カエルだのタヌキだの、なんだかんだ言って野生動物もあっちこっちに住んでる。 「ほら」 ひとしきりバタついた後、また動かなくなったセミに人差し指を差し出す。 助かったとばかりにはっしとしがみついてきたアブラゼミを、二階の廊下から思い切り空へと放り投げる。 真夏の日差しが照りつける中。 ---その姿は、光の中へと消えていなくなった。 「……あの子。ちょっとでも長生きできるといいなぁ」 わたしは実家が田舎で虫なんかその辺にいくらでもいたので、セミくらいなら別に怖くはない。家庭内Gは大嫌いだけど。 おそらく最後のフライトであろうそれを見送りながら、控えめに叫んだ。 「……誰でもいつかは死ぬんだし。短い人生、精一杯生きようねぇ〜!」 その瞬間。---誰かに見られている気配がした。 なんとなく身を乗り出して階下の廊下部分を見たけど、誰もいない。 首をぐるっと曲げて上の階も見たけれど、やっぱり誰かが見下ろしているわけでもなし。 気のせいかな? と思った時に。ガタンと近くで音がした。 思わず振り向くと、同じ階の斜め向かいの住人らしき女性がこちらを凝視していた。 わたしよりは幾分上。 30半ばかと思しき女性は、酷く怖いものでも見たかのような目で。 こちらと目が合うと、思い切りドアを閉めてしまった。 「……すいません」 何も言われていないのに、思わず謝る。 ブラック企業にいた時からの癖だ。 「……あちゃー。思いっきり不審者だよね」 あの部屋には確か、母子家庭が住んでたと思う。 あの部屋に入った時、お子さんがいるらしいって管理人さんに聞いたような気がする。 わたしが仕事を辞めた後に入居して、一応うちにも挨拶には来たものの。 平日から家にいたことから何となく無職とバレて、少し哀れむような目をした母親のことを覚えている。 部屋に戻ると、ちょうど正午でテレビ番組がニュースに切り替わったところだった。 「……先日から東京都豊島区内で出没している、女性に声をかける不審者についてですが。つば付きの帽子を被った男が、付近でたびたび目撃されており……」 ……………。 こ、こわ。 まぁ流石にわたしは狙われないよね? 年齢的に。狙われないと信じたい。 「でも20代後半で無職じゃな。狙われなくても、見下されるのは仕方ないかも」 ハロワいこーっと。 自嘲気味に呟くと、今日の午後はお馴染みの池袋ハローワークに行くことにした。
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