いなくなったあの子。

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

いなくなったあの子。

 あの子がいなくなった。  亡骸さえ、戻ってこなかった。  くわえ煙草の先端に火を点けて、男は美味そうに煙を燻らせた。 「悪いな、ホリィ」  そんなセリフに、私は首を振った。まだ銃身に熱を持ったハンドガンをホルスターに収めつつ、視線を彼に移す。 「いえ、気にしないでください。クラウスさんとのこういう時間、好きですから」 「お、そうかい」  こちらをじっと見つめていたクラウスさんは、少しだけ笑った。  任務が終わると、彼はいつも煙草に火を点けた。私は、クラウスさんの満足そうなこの表情と、充満した血の匂いをかき消していく煙草の香りが好きだった。  私も、にこと笑い返した。 「いいコだ」  煙草をはさんでいない方の左手が、真横から私の頭に伸びる。ちょっと武骨な大きな手で、ぽふぽふとなでられる感覚が心地いい。  されるがままの私に、クラウスさんは何気ない調子で言葉を続けた。 「おじさんとしてはさ。キミみたいないいコには、なにかしてやりたいわけよ」  そんなことを言ってもらえるなんて、思ってもみなかった。  きょとんとした私の髪を、クラウスさんはするりと指先ですいた。するりするりと、感触を確かめるように丁寧に何度も指を通す。  私は、ちょっとだけ首を傾げた。 「充分、良くしてもらってますよ?」 「ちっとも足りてなくないか……? 俺も、キミの使い方が雑だってことは自覚してるつもりだぜ?」  そう言って、クラウスさんは私の首に巻かれた包帯にそっと触れた。今回の任務で、負った怪我だった。  私は、ぶんぶんと手を振った。 「そんなことないです。こういうのは、私の能力不足ですから」  このくらいの軽傷で済んだのなら、結果は上々だ。作戦の内容が危険なのは、最初からわかりきっているのだから。毎度怪我するからといって、クラウスさんの指示が悪いなんて絶対に思わない。  だけど、クラウスさんは困ったように苦笑した。そして、煙草の煙を吐くと、私の頭をわしわしとなでる。  私は、目をぱちくりとさせた。 「ク、クラウスさん……??」 「キミは、よくやってくれてる。だから、俺が勝手になにかしてやりてーの」 「……ありがとう、ございます」  本当に、この人には敵わない。こんなふうに言われたら、ついつい甘えたくなってしまう。  クラウスさんは、いたずらが成功した子供のような顔でニと笑った。 「ってわけで、欲しいものはあるかい?」 「欲しいもの、ですか」 「やってほしいことでもいい。まあ、俺のできる範囲でな」 「なんでも、いいんですか?」 「言ってみな」  含みのあるクラウスさんの表情に、かえって素直にさせられる。いつもだったら思いつきもしないお願いごとが、すっと私の口をついて出た。 「抱きついても、いいですか?」  言ったことに気づいて、内心は自分でも驚いていた。クラウスさんは、ほんの少しだけ意外そうにする。 「ん……? そんなことでいいのか」  この人のことだ。きっと、どんな無理難題も、私がいうならと叶えてくれるつもりだったんだろう。  ふふと笑って、こくりとうなずいた。彼は、わかったとささやいた。  深めに煙を吐いたクラウスさんは、携帯灰皿に吸殻を押し込んだ。そして、私に向き直ると、柔らかく微笑する、 「おいで」  ただただ優しい声と瞳で、私を呼んだ。それだけでも、幸せな気分になった。  腕を広げたクラウスさんに近づいて、私は遠慮がちに手を伸ばす。彼の腰にそっと抱きつけば、私の頭と背中を支えるようにぎゅっと抱いてくれた。  ふと鼻をくすぐったのは、かすかに甘くスパイシーな香水の香り。それらは煙草の香りとマリアージュを起こして、私の頭の中をじんわりと侵していく。  上質なシャツの感触と、伝わるクラウスさんの体温が心地良い。思わず、彼の胸に頬をすり寄せれば、あやすように背中をなでてくれた。 「大丈夫だ」 「ん……」  私は夢心地で、ほとんど無意識に返事をしていた。 「ホリィ。キミには、俺がついてる」 「……はい」 「キミなら、大丈夫だ」  誠実なその言葉に、心の奥底に隠れていた不安が溶けていくのがわかった。  この人が『大丈夫』と言うなら、大丈夫。根拠のない、だけど、私にとってはなによりも確かな真実だった。 「ありがとうございます。クラウスさん」  吹っ切れたように笑えば、微笑したクラウスさんはもう一度頭をなでてくれた。 「このくらい、おやすいご用だ。今度の単独任務、成功を祈ってるよ」 「はい……! 頑張ってきます」 「いいコだ」  クラウスさんは新しい煙草をくわえつつ、口の端でふっと笑った。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!