10月31日の飲み物

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 転校してきた彼の容姿から、クラスの誰もが彼を外国人なのだと思った。だが、遠慮を知らない面々がそれを口にすると、黒板の前に立つ当人は流暢な日本語で、「父親は日本人だよ」と答えた。  ならば、彼……七尾守也(ななおもりや)は、故郷の国に帰ったという母親の方に似たのだろう。彼の髪は鳶色で、肌は血の気が感じられない青みさえある白、眼鏡の奥の瞳は光の加減で時に黄金にも見える碧色だったから。  守也がクラスの中で最初に仲が良くなったのは、野上楓(のがみかえで)だった。その理由は、単に五十音順に並んだ席で前と後ろだったから、それだけだったと、楓は思っている。それから、お互いの住む家が比較的近所にあったこと、小学二年生という男子と女子がまだ一緒に遊ぶ年頃だったというのも理由になっていたかもしれない。  とはいえ、楓とだけ話をしていたのは転校後数日だけで、守也はすぐにクラスに馴染んだ。端正過ぎるお陰で子供ながらに他人を寄せ付けない雰囲気のある容姿の守也だったが、実際に話をしてみれば、彼は面白いことを言い、馬鹿馬鹿しいノリにも積極的に付き合ってくれる、親しみやすい子供だった。  だが、守也がただそれだけの少年だったのなら、十年以上経っても楓の記憶の中で特別強い印象が残り続ける人物にはならなかっただろう。守也は基本的には明るく愉快な少年だったが、時々、今振り返っても……いや、子供の頃ははっきりとは意識できなかったが、大人になったからこそ、現実との差異を感じさせられる面を、多々見せたものだった。    例えば、学期末で見せ合いっこした成績表で、守也は学業の成績は中の上といったところだったが、学校で習わないようなことに関しては、彼はたいへんな物知りであった。  放課後、一緒に遊んでいる最中に守也は様々なことを楓に教えてくれた。道端に生えている植物、電線や樹木で羽を休める鳥、草むらを蠢く小さな昆虫の、名前や生態といったことをだ。  動植物に詳しい小学生は、珍しくないかもしれない。しかし、守也の知識は本や映像等で得ただけとは思えない、生々しい趣があった。やれ、この草は消毒に使えるだの、あの鳥は見た目に反し案外旨かったのだの、この虫を見ると大凶作の時を思い出すから嫌だの…当時の楓は、自分の知らないことを知っている守也に対し、ただただ感心するばかりだったが、今思えば、生まれて十年足らずの都会っ子が知っているのが妙としか思えない経験談を披露されていた気がする。  かといって彼は純粋な野生児らしかったかというと、そうでもなかった。いつだったか楓が公園で遊んでいると、偶然通りかかった守也が彼らしくもなく強引に楓を公園から連れ出した。訳を聞いてみれば、「変なおっさんがいたから」ということだったが、その後その公園の近くで変質者騒ぎが起き、結果、あの時楓は守也に助けられたのだと言えた。  彼には、人間に対しての警戒心が研ぎ澄まされているところもあったのだ。  守也に関し、印象に残っているのは知識豊富であったり、勘が鋭かったりという内面的な部分だけではない。  三年生の時の、運動会だった。徒競走で、守也は六人中四位でゴールした。 先に競技を終え、トラックの内側で他の児童たちとかたまって座っていた楓は、順位毎の列に分かれていくその組の走者達を何気なく見ていたが、その中で、ふと、守也の様子が気になった。  一位から三位、五位と六位の五人の走者は、五十メートル走り切った直後だけに、ゼイハアと激しく息を切らしていたが、彼らと同じ組だった守也だけは何故か、直前まで全力疾走していたとは思えないほど、呼吸が全く乱れていなかった。そのことに気が付いた楓は、自分の真横に誘導された守也に、そっと「真面目に走らなかったでしょ」と囁いた。その瞬間、彼は楓といる時には常に浮かべていた笑顔を、消したかのように見えた。  しかし、それはほんの僅かな間のことで、直後には大袈裟な咳ばらいを連発し、これもまたわざとらしく大きく吸っては吐きの呼吸をした。一連のパフォーマンスを終えた守也は、「緊張して、呼吸も忘れてた」とニヤリとお馴染みのお道化た笑顔を向けてみせ、「サボってたこと、みんなには内緒」と楓に耳打ちした。  そういえば、こんなこともあった。  運動会の出来事があったのと同じ年の、七月末だったと思う。読書にのめり込み、うっかり図書館に長居してしまった楓は、言い付けられている門限に遅れないよう、駆け足で家路を急いでいた。  途中、橋を渡っていると、下で河原を歩く人影が見えた。自分と同じ年頃の子供に見え、もしかして知り合いではと、黄昏時の薄闇に目を凝らすと、果たして、その子供は守也だった。  楓が守也の姿を見るのは久しぶりだった。彼は彼の体質の関係で、夏至の頃から学校を休んでいた。守也の身体が、通学するのに何の弊害を持っているのか、同級生である楓たちには知らされていなかったが、学校側は正式に了承している事柄らしかった。  その守也を、その日は外で見かけた。体は大丈夫なのだろうか、一学期の後半、教室で彼を見ることが無く少し寂しさを感じていた楓は、守也に声を掛けようとして、そうして言葉を飲み込んだ。  守也が、跳んだ。四メートル以上ある川幅を、助走もなしに。楓が、凄い…と見とれていると、守也は対岸にいた男性と合流した。父親だろうか、二人が親し気に話す様子から、そう思った。  人一倍人見知りをする子だった楓は、守也に同伴者がいることが分かると、もう挨拶をする気も失い、門限を思い出して、再び濃い紫色の空の下を駆け出した。  一ヶ月経った九月一日の始業式の日、数か月振りに守也に会った楓は、ふと思い出し、七月に目撃した出来事を口にした。 「すごかったね。川の上をピョーンって」  守也は最初、楓が何を言っているのか見当がついていない風だったが、楓が詳しく説明すると、白けた様子で「あそこ、飛び石があるじゃん」と言った。 「え、無いよ。ひとっ跳びしてたじゃん」 「そんなわけないよ。そんなことできたら、陸上の全国大会にでも出てるよ」  言われてみれば、体育の授業中で守也の周辺が騒がしくなったことなど一度もない。それどころか、青白くひょろひょろに痩せた彼は、どちらかというと運動が苦手なタイプに属した。  しかし、楓は見たのだ。あの日、確かに。楓がなおも食い下がると、守也は今度は少し優しい調子で、「暗い時間だったなら、見間違えることはよくあるよ」と宥めてきた。  そのしばらく後、楓は目撃現場である橋の上を通りがかった。その時は天頂に太陽が輝く真昼間で、そうして川を見下ろせば、守也が言っていた通り、確かに飛び石は川の中に敷かれていた。しかし、その場所はと言うと、あの夕方、守也が川を跳び越えた場所より、三、四十メートルも川下に位置していた。  夕方の薄暗さで、距離感覚が狂っていたのだろうか。楓はそう思おうとしたが、やはり納得はしきれなかった。  そう、思い出そうとすればする程、守也との思い出には論理的には説明がつかない不思議な出来事が付き纏う。しかし、守也に関して最も印象深い出来事は、小学四年生の時のハロウィンと、その後に起こったことだ。  地元の子供会により毎年恒例の仮装行列が催される十月三十一日、吸血鬼の扮装をした守也が楓を迎えに自宅までやって来た。日本人離れした容姿のお陰か、守也には吸血鬼の出で立ちがこの上なく似合い、玄関まで出迎えた楓の母親を歓喜させた。  子供会の集合時間にはまだ大分早い時間だったが、守也が集会所には自分の家に寄ってから行こうというので、楓は急いで魔女の扮装に着替え、守也と共に家を出た。  二人並んで道路を歩いていると、楓の目に守也の旋毛が見えた。彼が転校したての頃、守也は楓よりずっと背が高かった。クラスで背の順で並んでも後ろの方だった筈だが、四年のクラス替えで二人のクラスが離れてから以後、楓が朝会等で守也を見かけると、彼は以前よりも前の方に立っていた。  守也の背の高さが二年近く殆ど変わっていないのは、夏に彼が学校に来なくなる原因の「体質」と何か関係があるのだろうか。短い道中で、楓はそんなことを思った。  楓が庭木の枝が伸び放題の一軒家である守也の家に来たのは、その日が初めてだった。家に一歩入ると、屋内は遮光カーテンを閉め切った暗闇で、家の人間は出払っているという様子だった。  守也は玄関から廊下に上がると、カーテンを開けることなく廊下と部屋の照明を点けて回った。そうして、室内が青白い光で満たされると、「あがって」と楓を手招きした。  楓が台所に来ると、守也は冷蔵庫からグレープジュースを思わせる紫色の液体が入った瓶を取り出し、中身を脚のついたカットグラスに注いだ。そもそも守也が子供会のイベント前に楓を自宅に誘ったのは、この「ハロウィーンに飲むのにふさわしい飲み物」と説明した液体を楓に飲ませるのが目的だった。 「どうぞ」  グラスを受け取った楓はまじまじとグラスの中の液面を覗き込んだ。液体の向こうは暗く、濃い色に邪魔され見えなかった。 「このジュース、何でできてるの?ぶどう?」 「葡萄も使ってるよ。でも、アルコールは入ってないから、大丈夫だよ」  まさか同級生に酒類を飲まされるとは思っていなかった楓はキョトンとしてしまったが、まぁ、最悪不味いだけだろうしと、ジュースを口に含んだ。  確かに、葡萄の味はした。しかし、これは他に……なんだろう、母の親戚にあたるお婆さんがこんな味のお菓子を渡してきた気がする。または、この夏休みに家族で行った中華街の店で前菜として出されたハム。  楓はジュース一口分を飲み込むと、すかさず守也に水を要求した。シンプルなグラスに注がれた水一杯分を飲み干した楓に、守也が笑いながら聞いてきた。 「不味かった?」 「なんなの、これ?変なの入ってる?」 「魔除けのハーブだよ。今日みたいなイベントには相応しい感じしない?」  その時、ギシリと床が軋む音がした。楓の後ろを通る廊下に、上下トレーナーの男性が立っていた。男性は、楓の頭を飛び越し守也に尋ねた。 「お客さん?」 「うん。去年まで同じクラスだった、野上楓さん。楓ちゃん、これ、うちのお父さん」 「お邪魔してます…」  男性は楓に軽く会釈を返した。だらしない服装と伸びきった髪の割に、顔には清潔感があり、小学生の息子がいるとは思えない程若々しかったが、肌は病的に青白く、体の具合が悪いのかボンヤリとした態度だった。 「じ………守也が、お世話になってます。守也、出掛けるのか?」  守也は台所の壁掛け時計をちらりと見た。 「そろそろね」 「そうか……その、今日、なんだよな?」 「そうだよ」  なにか不安気な様子の父親に対し、守也はっきりと言い切った。 「じゃあ、僕は家で待ってるから」  守也の父はもう一度楓に会釈をすると、静かに二階へ繋がる階段を上がって行った。 「お父さん、若いね」 「まぁね。もうちょっと、しっかりしてもらいたいもんだけど」  褒めたつもりの楓に少しずれた感想を漏らすと、「ちょっと仕上げしてくる」と言って守也も二階へ上がって行ってしまった。  一分もしないうちに台所で待たされていた楓の元に戻ってきた守也は、さっきまでしていなかった薫りを体から漂わせていた。 「香水、つけたの?」 「そうだよ。この格好に似合うだろ」  守也が自らの肩に掛けたマントを翻すと、薫りは一層濃くなった。匂いを構成しているのは、花、ハーブ、スパイス、それだけではない、何かを燻したような重い薫り、それと少しの獣臭さも。とにかく、楓が普段よく嗅ぐ柔軟剤やシャンプーの匂いとはまったく別物だった。  薫りの元は父親から拝借した物かとも思ったが、それにしては、薫りは先ほど会った男性よりも、吸血鬼の恰好をした目の前の少年により似合っている気がした。 「見て。歯も付けた」  守也が自分の口の端を引っ張り上げると、犬のそれの様に尖った歯が見えた。作り物の玩具とは思えぬ程、よく出来ていた。  その日の仮装行列は例年に比べ、あまり盛り上がらなかった。何故なら、集会所に集まった直後から「だるい」だの「ねむい」だのと訴える年少者が続出し、それらの子達は早々に家に帰ってしまったからだ。  人数を半分に減らしつつも出発した仮装部隊も、数十分足らずで皆の足が重くなり、無理したのでは楽しくないだろうとの責任者の一言で、途中で現地解散と相成った。  その十月三十一日が、楓が守也を見た最後の日になった。  楓はしばらくの間、クラスが異なる守也がいなくなったことに気が付かなかった。気付いたのは、十一月の半ばを過ぎたある日、二週間前に訪れた家が空き家になっているのを見かけたからだ。  自分の家に帰った楓がそのことを母親に話すと、母親は楓が思いも寄らないことを口にした。 「守也くんって、誰?」 「え?二、三年のとき同じクラスだった…ハロウィンの時、ウチに迎えに来たじゃん」 「それ、いつのハロウィンの話?」  母親は守也の存在を憶えていなかった。というより、すっかり彼の存在を忘れてしまったようだった。  それは、楓の母親だけではなかった。その後、楓が友人達の間で守也の話を出すと、決まって彼彼女らは「そんな子、知らない」と首を傾げた。「夢にでも出てきた子なの?」とまで言われた。  あまりしつこく守也が現実に存在したことを説明すると、皆、どう反応したものかという微妙な表情をするので、そのうち、楓は守也に関してのことを誰にも話さないようになった。  それでも、彼は確かにいたのだと楓は確信していた。何故なら、あのハロウィンの日、青白い蛍光灯の下で飲んだ紫色の飲み物……あの決して美味しいとは言えない独特の風味が現実のものであったと、強く、生々しく舌の記憶が訴えていたからだ。   社会人一年目にして、一人暮らし一年目。残暑厳しい九月、土曜の午前中から夕方にかけて、平日見て見ぬふりをしていた諸々の家の用事を済ました楓は、その日の夕飯と翌日の朝食を買いに家を出た。  黄昏時、スーパーに至る道のショートカットに使っている公園で、ベンチに並んで座りアイスキャンディーを食べる親子、または年の離れた兄弟を見た。  仲が良いことだと、その前を通り過ぎようとして、だが、楓は子供の方を二度見してしまった。その子が、突然いなくなってしまった同級生、七尾守也と瓜二つだったから。 「守也くん…」  声を掛けたつもりはなく、ただ、口を付いて出てきただけの名前だったが、子供は間髪入れずに通りすがりの楓の方を見た。  そして、眼鏡をかけた顔に笑みを作ると、横に座る男性に、「お父さん、あのお姉さん、お父さん呼んでる」と言った。 「え…」  男性は訝し気に呟いた後、息子にならって楓の方を見た。親子二人に見詰められてしまった楓は、その四つの瞳を無視することもできず、「すみません、あの、お子さんが小学生の時の友達にとても良く似ていたもので」と、正直に申告した。 「似てるって、その子、お父さんじゃないですか?」 「えっ…」  無邪気に答える子供に対し、横の男性は眉を顰めた。 「お父さん、モリヤっていうんです」  楓は不躾なのも忘れて、男性の顔をまじまじと観察した。その男性の顔に、あの不思議な印象ばかりの鳶色の髪に碧の瞳の同級生の面影は………全くなかった。彼は、黒髪に暗褐色の瞳、イケメンと言って問題ない整った顔ではあったが東洋人ど真ん中の薄い顔をしていた。  だが、よく見ると守也ではない、過去に会った誰かに似ているような気もした。しかし、それが誰かは、今この場ですぐには思い出せそうにもなかった。 「いえ、多分…。その、すみません、突然。お邪魔しました」  楓はそそくさと二人から離れ、再び目的地であるスーパーに向かって歩き始めた。
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