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窓の外には、膨らみ始めた薄紅色の蕾。花の中でも桜が一番好きだという妹の桃華は、「もうすぐ咲くね」と嬉しそうに呟いた。 この病室から、何度一緒に桜の花を眺めたことだろう。我が家のお花見は、いつも決まって病院だった。 「そうだね」 私は複雑な気持ちを抱えながらも、微笑んで頷いた。確かに病院の桜も綺麗だ。だけどもっと綺麗な所があるのを、私は知っている。だから、ここで一緒に桜を見る度に、心の中では来年はもっとすごいのを見せてあげたいと感じていた。 しかし、その願いは今年も叶わないだろう。 「あ、そういえばお姉ちゃん、今度水族館行くんでしょ?」 ふと、桃華は思い出したようにそう尋ねてきた。だけど本当は思い出したわけではなく、私のしんみりした雰囲気を察して話題を変えてくれたのだろう。 「いいなあ。水族館って、大きなお魚とか海の生き物がたくさんいるんでしょ?すごいなあ。楽しそう」 にこにこ笑ってそう言った。桃華はきっと楽しいことを考えさせて、私を明るい気持ちにしようとしてくれたのだろう。 それなのに、ごめんね。 「行かないよ」 私はポツリとそう返した。 「え?でも、ママに遠足で行くって聞いたけど」 「うん。でも、私は行かない」 少し戸惑った様子の桃華に、私ははっきりと言い切った。 まるで聞き分けの悪い子供みたい。 「……行ってきてよ。きっと楽しいよ」 桃華は、私の気持ちを察したようだった。優しく勧めてくれたその言葉を、それでも私は受け入れられない。 「いいの。私、桃華と行くから。元気になったら、一緒に行こう。それまでは私も行かなくていいよ」 本当に私、ダメなお姉ちゃんだね。桃華を困らせるようなことばかり言って。だけどやっぱり、ここから出られない桃華を差し置いて、自分だけ行くことなんてできないよ。 「お姉ちゃん……」 呟いた桃華の表情が、少し歪む。 だけど、涙を見せることはなかった。小さい時は泣き虫だったはずなのに、いつの間に泣かなくなったのだろう。私たちに心配かけないように、私たちを暗い気持ちにさせないように、桃華は自分が辛い時だって、誰かのために笑うようになった。 今だって、そうだ。 「お姉ちゃん」 先ほどの呟きとは違って、今度ははっきりと私を呼んだ。そして、ベッドのすぐ横にある棚の上に手を伸ばす。そこには、桃華の大切な物が置かれていた。 数年前、手術を頑張った御褒美に両親に買ってもらったクマのぬいぐるみだ。その日からずっと桃華と一緒だったこの子は、学校に行けない桃華にとって友達のような特別な存在。 そんな大切な物を、躊躇うことも無く私に差し出して、言った。 「この子、お姉ちゃんにあげる」 窓から射し込む木漏れ日が、優しくその輪郭を照らしていた。細くてか弱い姿の内側にある強さと美しさを、私は確かにこの目で見た気がした。 「それで、私の代わりにこの子、連れて行ってあげてよ」 唐突な発言を受け、何も言えずにいる私に、桃華はそう続けた。 私が遠慮せずに遠足に行けるように、という理由で言ってくれたことだというのは、さすがに分かった。だけどほんの少しだけ、それだけじゃない気もして、すぐには受け取ることも突き返すこともできずにいた。 「でも」 「だって、お姉ちゃんには元気になった私をしっかり案内してもらわなきゃでしょ。一緒に行った時、迷子になったら困るんだから」 ようやく口を開いた私の言葉を遮り、桃華は冗談めかして言った。そして、両手に持ったぬいぐるみをぐいと私に近付ける。 「……分かったよ」 結局私は、押し切られるように受け取った。桃華の宝物。 あげると言われたけれど、遠足が終わったら返すつもりだった。だけど……。 「ありがとう、お姉ちゃん」 その年の春、桃華はこの世を去った。楽しみにしていた窓の外の桜が、満開を迎えるのを見ることもなく。 たった一人の大切な妹は、私の前から居なくなってしまった。
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