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1章
都心に位置する、とある手帳メーカーの一角に設けられた小さな休憩所。自動販売機で微糖の缶コーヒーを片手に壁にもたれかかっているのは、社内トップクラスの売上実績を持つ営業部社員の権代透だ。
スラリとした長身、よく通る鼻筋、人好きのするやや垂れた瞳。当然女性社員の人気は抜群だが本人は至って真面目……とは言い難い。残念ながら彼は公私において盛大に男と女の関係を楽しんでいる種類の人間だ。時々彼女と別れたという噂が流れたかと思ったら、もう違う女性と親密そうに肩を並べている。
モテるという扱いの彼だが、あんまりにも独りでいる期間が短過ぎるのでフリーになった瞬間に一番に声を掛けさえすれば攻略自体は簡単だと揶揄されたこともあった。ちなみに、今は貴重なフリー期間7日目である。
暇そうに缶コーヒーのパッケージを眺めている彼の前に、一人の女性社員が一歩一歩足を踏み出していく。この光景は社内において特段珍しいものではない。
「権代さん、ですよね?」
話しかけられた権代の手から少しコーヒー缶がずり落ちた。彼は不思議そうに首を傾げて、女性社員をまじまじと見る。
「そうだよ」
自分より若いと判断したのか、返事がタメ口だ。平均よりやや小柄。デコルテの空いたクリームベージュのインナーをダークスーツの下から覗かせ、はっきりとした二重にくっきりと黒いアイラインを引き、華奢な唇に艶やかな紅い口紅を塗って、権代を上目に見つめている。
「初めまして。私、総務の北村紗和と申します」
低めで落ち着きのある、一番色気が出る声の出し方を研究して臨んでいた。
「北村さんね。初めまして」
権代は空のコーヒー缶をゴミ箱に捨てながら、にこりと慣れたように口角を上げる。その笑顔に愛した人を失ったばかりの男の憂いの陰は見えない。
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