暗涙

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暗涙

 ―――ピチョ―――ン……ピチョ―――ン……。  暗闇の広がる世界……。空間……。  何も見えないのだから、そこが屋外なのか室内なのか、判別する材料などどこにもない。    ―――ピチョ―――ン……ピチョ―――ン……。  しかし、どこかで雫の滴る音が、確かに起こり響いている。    ―――ピチョ―――ン……ピチョ―――ン……。  液体が一滴一滴、高所から低所へ落ち鳴らす音。  最も理解しやすい表現を用いるならば、閉め切られなかった蛇口から水が滴り、それが下に……そこが流し台なのか陶器製の手洗いの上なのか、はたまた自然石の上なのかは分からないが、とにかくそこへ一定間隔で落ちている音に酷似しているだろう。    ―――ピチョ―――ン……ピチョ―――ン……。  その音を気にする者も、それを止めようとする者もいない。  ただその音だけが、この深淵の中で音を発していた。  ―――ピチョ―――ン……ピチョ―――ン……。  ―――……すん。……ぐすん。  そんな雫の奏でる規則正しい音響に、いつからか違う音……いや、声が混ざりこんでいた。    ―――……うう。……すん……ぐすん。  その声は、だれがどう聞いても小さな子供のすすり泣く声にしか思えない。  このような特異な空間で……そこが現実世界なのか、それとも夢世の空間なのかは分からないが、ともかくこの様に怪奇な場所で子供の声が、それが例え泣き声であっても聞こえるというのは、どうにも不気味としか言いようがない。    だが、その様な事を感じ取ったところで、それは全く詮無い事である。  現実に暗闇が支配している世界で、そこには雫が滴る音が響き渡り、そして子供の泣く声が聞こえているのだから。  ―――ピチョ―――ン……ピチョ―――ン……。  ―――……ぐす。……うう。……なんで?  水滴の音と子供の鳴き声という不気味なハーモニーに終止符を打ったのは、やはりと言おうか泣き声の主であった。  それまでの鳴き声に加えて、自問するような……問いかけるような言葉が含まれたのだ。  そしてその言葉は、そこから堰を切ったように紡ぎだされる。  ―――どうして……? ……ぐす。……なんで?  ―――どうして帰って来ないの……?  ―――どうして……帰ってきてくれないの……?  嗚咽を漏らしながらも、その声は疑問を口にし続ける。何故……どうしてと。  しかしやはり、その問いに答える声はこの空間に返って来る事は無く。  規則正しく打ち鳴らされる雫の落ちる音と、子供の発する言葉だけがこの闇にあるすべてだった。  と、そんなある種静寂空間を破って、突然真っ暗闇に白い光が浮かび上がった。  長方形を形作るその光線と、まるでその形に切り抜かれたような黒が白光の中へと引かれてゆく。  それはまるで、何もない空間にいきなりドアが出現し、その扉が光の方へと引かれて開いたかのようであった。  そしてそれを肯定するかのように、その動きに合わせてギィ……ときしんだ音が新たに混じった。  そんな異変が起こっているというのに、滴る水滴の音と子供の泣き声は変わらない。  ―――僕……僕、ちゃんと言いつけを守ってるよ?  ―――ピチョ―ン……ピチョ―――ン……。  ―――ちゃんと言いつけ守ってるのに……なんで?  黒い扉が開かれ、光の中からは誰かが入り込んでくる。  入ってきたのが「人」だと思えたのは、光をバックに浮かび上がるそのシルエットが「人型」をしていたからに他ならない。  閉ざされた異界に扉を作り侵入してきたのか……、はたまたこの空間はもともと普通の家屋(・・・・・)だったのか?  ともかくこの暗闇に足を踏み入れたその人影は、慎重と言って良い動きで歩を進めていた。  ―――……ねぇ。……寒い。……寒いよ。それに……お腹が空いたよぉ……。  子供の問いかけは、その新たな出現者に向けられたものではない。  先ほどから一切変わらない声音でもって、単調に……そして、ここにはいない誰かに向けられて発せられている。  ―――……早く。早く……戻ってきてよ……。  その時、乾いた金属の奏でるような音が響き渡る。 「……っ!?」  光から侵入してきたその人影は、一瞬その音に体を強張らせたのだが、声を発するまでには至らなかったのだった。  何故ならば。  金属音が響いたその次の瞬間、何か重いものがその人影の足元に落ちる音がする。  それが何であるのかは……光を背景に黒く浮かび上がった人影が物語っていた。  それまで人の形を模っていた影の頭部が……無くなっていた。  影の足元に落ちたのは、切り取られたその影の頭部であることは疑いようがなかったのだ。  展開していた(・・・・・・)防御障壁(・・・・)はまるで役に立たず、悲鳴を上げる(いとま)さえ与えられることなく、文字通り瞬時にしてその侵入者は絶命を余儀なくされたのだった。  そして、行動を制御し命令を与えていた個所を失った肉体は、意図したものではなく数歩足を進め……倒れこんだ。  それと同時に、長方形に浮かび上がっていた光に影が差す。  先ほどとはちょうど逆回しの映像を見ているかのように、ギギィ……と軋み音を上げて扉がゆっくりと締まり、そして遂には完全に閉じ切った。  そうして再び、この空間は漆黒の闇に閉ざされたのだった。  訪れた暗闇の中、聞こえるのは子供のすすり泣く声とそして。  ―――ピピチョ―――ン……ピチョンピチョ―――ン……。  先ほどとは違う、不規則となった雫の滴る音。  まるでもう一つの蛇口から新たな水滴が落ちだしたかのように、間隔も音色も違う水滴が2つの旋律を奏でだす。  ―――……ねぇ。……ぐすん。……どうして?  そしてその効果音を背にして、子供の哀咽と虚空に問う声は続いていたのだった……。  そう……延々と……。
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