錦佳楼の咎人

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 低く垂れ込めた雲より、たまりかねたように雫が一滴落下する。  平地一帯に広がる三嵯野の都を見下ろしながら、ついには弾けて飛び散った。  鼻先に水滴の落ちるのを感じた充顕(みつあき)は、ぼんやりと顔をあげた。  新緑萌ゆる木々すら、どことはなしに暗く見えて、覚えずふと苦く笑みをこぼす。  まるで、天地までが彼の死を悲しんでいるかのようだ。  そんなはずはないのに。  長い葬列は華やかで、生前その主があった場所を思うとなるほど似つかわしい。  悪趣味だ。  そんな風に考えるのは、この広い都でも充顕くらいであったろう。 「充顕様」 「蓮華ノ姫、どうしてこちらに?」  昼に見上げる建物の威容は眠った獅子のよう。  あらゆる美と富貴の集う、花街の中心、錦佳楼は今、喪に服すかの如くいつにも増して静寂の中にあった。  その裏口から扇子で顔を覆い現れたのは、筆舌に尽くしがたい美しさが芳醇に香る、嫋やかな女だった。  惜しげもなく、女が人生で最も美しい時期の魅力を振りまき、豊満な肉体は濃密な色香を放つ。  錦佳楼娼婦で最高位にある()、蓮華ノ姫がそこにいた。  日頃、昼時はたとえ天子の大葬だろうと姿を現す事のない彼女がいる事に、充顕は軽く驚く。 「あの子が旅立つのだもの。わたくしが見送らない訳にはいかないでしょう」  高飛車な態度に反して、言葉から感じ取れるのは深い憐れみと同情、或いは慈しみだった。 「最後まで勝てた気がしなかったわ。もっともあの子は最初から、わたくしだけでなく誰一人として、仲間とも競争相手とも見ていなかったようだけれど」 「……桔梗ノ君は、あなたの事を好ましく思っていた」 「私も好きだったわ、でなければこんなことはしない」  人目に触れない屋根の下で、密かに二人は瞼を伏せる。 「そう、充顕様。わたくしが遺品整理をする事になったのだけれど、何か欲しいものはある?あなた、特別あの子と懇意にしていたようだから。お客からの貢物は大部分が楼に取られて、あの子付きの見習いや童子たちに配る分くらいしか残っていないわ。個人の所有物も……櫛や服はやはり楼の管理になるわね」  機嫌悪げに少し低くなった声。 「ああ、そうだわ。もう一つ、筆が残っていた。使われた様子はなかったかしら。あまり高価な品ではなさそうだったけれど、お持ちになる?」 「頼めるか」 「ええ、きっとその方があの子も喜ぶから」  童女に耳打ちして取りに行かせた後、ふうと気だるげに溜息を零す。 「本当に、哀れな子……」  涙ぐんで聞こえたのは、きっと幻聴ではないだろう。  錦佳楼は花街の中でも異質な場所だ。  他と一線を画す格式高さ、それに見合った質の女や男たち。  とりわけ―――。 「あ、あ…ん……は、ぁ」  その最奥の閨にいる少年は、特別だった。  湿った音が室内へ広がる度、否応なしに客の興奮は突き抜ける。  肌が触れ合い、吐息が交わる。たったそれだけでも絶頂に達しそうになるというのに、それがまして直接快楽の交歓に及ぶとなれば、ただ体を悦びに溺れさせる以外、どうしようもなくなる。  体の相性だけでいえば、()の第一位、蓮華ノ姫の方がよほども快感を与えてくれるだろう。本来、情事というのは男女の間で行われるべきものなのだから。  しかして、錦佳楼では桔梗ノ君と呼ばれる少年こそが、誰しもに頂点と思われていた。  反応の一つ一つが……濡れた唇から漏れる声、淫靡に流される視線、指の先、震える腰の動きまで、全てがどうしようもなく客を快楽へと誘う。  見ているだけでおかしくなってしまう。  その為、通常は事故を案じて部屋の隅に童が数人控えているものを、少年の場合は通貞が一人、気配を殺して座しているのみだった。  行為後の(しとね)を整えるのも、この通貞の役割だった。  まだ十過ぎといったこの少年の名を清彦という。  桔梗ノ君を相手にすると、客は大抵清彦が制止をかけるか、明け方になるまでとまる事がない。  客が去った後ぐったりと横たわる少年の姿は、到底通常の性器を持つ人間に見せてはならないものだった。  実際、何度か問題が起こった為、最終的にこのような措置が取られるようになっている。 「桔梗様」 「……もう少し…眠らせて」 「畏まりました」  たとえ男性器を持たないとはいえ、欲がなくなる訳ではない。  清彦の苦悩はまたの機会に語るとしよう。  昼下がり。  調子が良い日に限り、少年は時折外出した。  三嵯野には東西から物や人が流れ着くため、市などそれはそれは活気がある。 「(えい)」 「充顕様……こんにちは」  茶屋の隅。笠を被っているにも拘わらず、やけに気になる者がいると思ったら、あの少年だった。  桔梗ノ君というのは、彼がいる部屋名から慣例に倣って呼ばれるようになったもの。  本当の少年の名は、永といった。 「不用心だな。お付きはどうした?」 「休息を与えたよ」  玲瓏な声音が他の者の心を惹きつけてはたまらぬとばかりに、充顕は彼のすぐ傍へ腰掛ける。  俯き加減な瞳は、日の下で見るとまるでいつもと印象が異なる。  妖艶な色は鳴りを潜め、ただ純粋に美しい。  どうしようもなく、歪んだ仄暗い喜びが微かに揺れ動く。 「なら問題ないな。散歩の供をしよう」  無言で僅かに頭を下げる姿は、その内心で何を思っているのか分からない。  ああ。まただ。  充顕は溢れそうになる衝動を、毛ほども顔には浮かべぬまま抑え込んだ。  充顕が永に従い、市街を歩くのはこれが初めてではない。  桔梗ノ君は、錦佳楼へと訪れる高貴な者たちの誰もにとって特別であった。中には身分を隠した皇族などもいた。  だからこそ特定の誰かと昵懇になることはしておらず、ただ充顕だけが永という少年を知っている。  決してばれぬよう、二人が共に歩く時は、常に目深に被り物をした。ある種共犯とも呼べる関係だったろう。  ふと足を止めた永の視線の先を見遣って、内心で充顕は首を傾げる。  何でもない小間物屋、本当にどこにでもあるような店だ。金持ちから山と贈り物をされる彼が興味を示すような逸品など、求める方が酷というものだろう。  問いかけるような目つきに気付いたか、永が口の端だけに小さな笑みを浮かべる。苦いようにも、ただ淡いだけのようにも見えた。 「懐かしいと、少し思っただけ」  眉を顰め、それから気が付く。  雑貨屋に並ぶ台の一つに、筆が並べて置いてあった。 「ああ……」 「以前、似たものをあなたから頂いたから」  筆などどこにでも売っている。  しかし、そこにあるのは見覚えがある気すらしてくるほど、確かに似ていた。  もう一年も前。彼が錦佳楼の中へ入った時、充顕と永は今のように二人で歩いていた。  何か贈り物を買う事になり、充顕が選んだのは筆だった。  おかしな選択だ。  相手は娼夫、わざわざ筆などにせずとも、いくらでも他に相応しいものはあった。  皮肉的な感情すら浮かんでいたと思う。 「使う機会などないだろうな。楼が用意する物や、客から贈られる物の方が遥かに良いもののはずだ」 「そこまで分かっていたんでしょう」  ふ、と笑みをこぼす、その表情は見えない。  ただ口元だけが鮮やかに瞼へ焼き付く。  恨まれているのか、憎まれているのか、それとも他の感情か。  ただ、充顕は手放したくないだけだ。  他ならぬ永という少年の、心の最も弱い部分を、無遠慮に握りしめて口づける。そこには、何ものも勝らぬ甘美があった。
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