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 ノクスに突然訪れたオメガ特有の発情は初めてだったのも関係してか、発情期と呼べるほどのこともなく三日程度で終わった。発情と言ってもほとんど熱病に侵されたのと近い有り様で、ファルクが判断したとおり誰かと交われるような余裕すらなかった。激しく消耗した身体を寝台で伸ばしながら、ノクスはぼうっと窓からの景色を見ていた。 「ノクス様。ディアディラ王がお会いになりたいと仰られているようです」  突然の訪いに、ノクスが寝台から体を起こそうとしたが、リズたちに横になっているようにと言われてそのままの姿で再会することになってしまった。コルとファルクが最初に部屋に入ってきたのだが、彼らが正装と言っていいくらい立派な服を着ていることに気づいてノクスは驚いた。  これではまるで。 「コルたちが、王様みたいだ」 「ノクス様。王様みたい、じゃなくてこのアスラルを治める今上陛下であられます。ファルク様は王弟殿下ですよ」  ひそひそとリズに耳打ちをされて、ノクスは慌てて彼らを交互に見た。 「ノクスは案外鈍いなあ。ふつう、城に連れ込まれた時点で気づくと思うのだが。ほら、お客様をお連れしたよ」  王冠をつけたコルが明るく笑う傍で、ファルクがコル――アスラル王よりは色合いを落としているものの、綺麗な刺繍の入った裾の長い服を纏って立っている。商人ではないだろうとは思っていたが、まさかアスラル王とその王弟とは思っていなかった。驚きはあるのだが、これでようやくファルクがアスラルの軍を動かせた理由にも納得がいく。納得はできたけれど、アスラルはディアディラのような小国とは比べられないくらい豊かな強大国だ。ファルクがとてつもなく遠い存在に思えて、ノクスは無意識に耳を伏せていた。  そして――コルの合図で部屋に入ってきたのは年若きディアディラ王だ。痛々しかった右腕はだいぶ回復しているのが見えた。  リズたちには横になっているように言われたノクスだが、自分の王が目の前に現れて寝ていることなどできない。転がるように寝台から降りると、片膝をついて王への最敬礼を表す。だが、いつもなら気さくに声をかけてくれるはずのディアディラ王がこちらを見てくれる気配はない。 「ノクス。もう、お前は『オオカミ』の騎士ではない。……騎士ではない者が、俺に騎士の礼をする必要はない」  片膝をつきながら見上げていたノクスにかけられたディアディラ王の言葉を、ゆっくりとノクスは飲み込んでいった。自分がオメガだと叔父に告げられた時から、自分が王のための騎士ではなくなる日が来るかもしれないことを頭では分かっているつもりだった。だからこそ戦えるうちに散りたいとすら思ったのだ。  だが心の中では、オメガの身体になったとしても、陛下なら自分のことを騎士のままでいさせてくれるのではないかとも思っていた。王の身代わりになってまで助けようとしたことを評価してほしいわけではない。ただ、ノクスは己が他の並みいる『オオカミ』たちの中から『オオカミ』の騎士に選ばれたことを、誇りに思っていた自分に今更気付かされる。  けれど、その誇りはディアディラ王の言葉で粉々に打ち砕かれてしまった。    「お前がいてくれたからこそ、俺の命は今ここにある。腕を治してくれたのもお前なのだろう? だが、俺は『オオカミ』たちの王であり永久のつがいであるが故に、オメガであるお前を『オオカミ』の騎士として受け入れられない。我ら『オオカミ』にとって、三種の序列は絶対だ。オメガは服従することしかできない下劣な存在、誇り高き騎士であることは許されない。ディアディラに戻ったら、神殿に行ってくれるな?」 「……ディアディラ王、命を賭して御身を守ろうとした忠実な騎士に、その物言いはあまりではないか?」  その時、ずっと無言でいたファルクが口を開いた。 「ノクスは長い間死の淵をさ迷っていた。それでも一番に考えていたのは貴殿のことだったのだぞ!」  どんどんとノクスの視界は涙で曇っていく。こんな時に己の味方をしようとしてくれているファルクの声が、今だけは誰の声よりもよく聴こえる。そういえば、ディアディラ王の部屋で発情を起こしてしまったノクスを助けてくれたのもファルクだった。突然突き放されてから、自分は嫌われているのだろうと思うのに。この一番つらい時にファルクの言葉だけが唯一の救いだった。 (陛下……ファルク……みんな、ごめんなさい)  ぐちゃぐちゃの視界から、やがて涙が立て続けに零れていく。心まで弱くなってしまった自分がどうしても許せない。しかし、自分がオメガだったから、と考えるとどんどんと辛さを堪えることが難しくなっていく。常に前を向いているつもりだったが、行く先も見失った今、涙を止める方法がノクスには思い浮かばない。  ノクス、とファルクが自分を呼ぶ声が近くで聞こえるのに、もはや恥ずかしくて顔を上げることができなかった。ファルクに触れられるよりも先に、自分の心も体も溶けていくような気持ち悪い感触が起こった。ノクスの身体が再び獣の姿へと戻ってしまったのだ。  獣の姿ならば、ファルクはまた優しくしてくれるだろうか。人の姿を保っていても、『オオカミ』の騎士ではない、ただのけだものになってしまった自分に何が残ると言うのだろうか。そんなことをぐるぐると考えているうちに、あまりの具合悪さにそのまま意識が遠ざかっていく。   「驚いたな、本当に獣のオオカミに変じた」  コルが驚きを隠せないとばかりに呟いたのを間近に聞きながら、ファルクは寝そべるような姿勢で意識を失った小さなオオカミを抱え上げた。名前の通り雪のように真っ白な美しい毛並みだが、どうしてノクスがこの姿になってしまったのか分かるような気がして胸が痛む。 「ノクスはやはり私が引き取ります。陛下もまさか、この姿のノクスと交わるつもりはないでしょう」  ファルクは皮肉気にコルに対して声をかけてから、ちらりとディアディラ王を見やる。彼の王はファルクやノクスを見ることなく、じっと窓から中庭を見ていた。自分の身代わりをしてまで命を救おうとした忠実な騎士であり、発情するくらいにディアディラ王を慕っていたノクスは、彼にとって『邪魔な者』に成り下がってしまったと言うのだろうか。 「……ディアディラの『オオカミ』の結束とやらは、この程度なのだな」  思わずそう口にしたファルクを、コルが咎めようと名を呼んできた。  たとえば、ファルクがディアディラの王であったら。目の前に現れた白銀の運命を間違いなく掴み取るのに。  温かなノクスの身体を抱きしめながら馬車に乗って城を後にすると、ファルクは私邸へと急いだ。
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