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 ノクスは自身がファルクの屋敷に戻ったことには気づいたが、瀕死の重傷を負ったわけでもないのに獣のオオカミの姿のままなのが恥ずかしくてずっと部屋の中にいた。獣の姿でいるうちはほとんど腹が減ることもなく、じっとしていれば時間が過ぎていく。  やがてファルクが折を見て部屋に訪ねてくるようになった。ノクスの部屋として割り当てられている部屋はファルクの寝室と隣り合っているようで、人の言葉を話すこともできないノクスのいる部屋に仕事を持ち込んだりしてファルクも同じ時を過ごす。 「これが気になるのか?」  ある日。  ファルクが持ち込んだ筆記具の中にまるで鳥の羽のようなペンを見つけて、ノクスは頭を持ち上げた。その気配に気づいたファルクがノクスに笑いかけてくる。やはりノクスがオオカミの姿でいるとファルクの笑顔はとても穏やかで、ノクスを机まで呼び寄せた。それから、小柄とはいえオオカミを己の膝の上に抱き上げてしまった。 「面白い色だろう。これは遥か南にある国の使者から土産にともらったんだ。……なんとかという鳥なんだが、長すぎて忘れてしまった」  なんでも覚えていそうなファルクがそういう風に言うのが面白くて、ノクスはオオカミの姿のまま小首を傾げた。ふわふわとした鳥の羽は極彩色をしており、きっと飛んでいる姿は美しいのだろう。 「春のディアディラ侵攻は一部のクルガ軍による暴走だったことで決着がつき、もう少しでディアディラとクルガの和平が成立する。そうしたら南の方にでも行ってみるか? 南には甘いものが多い。ノクスが喜びそうだ」  時はゆっくりとだが確実に流れていて、ディアディラ王たちはかなり前に祖国へと戻っていった。帰る前にノクスをディアディラに連れ帰ると王が詰め寄ったそうだが、ファルクが断ってくれたと聞いてほっとした。王の拒絶の激しさから考えて、ディアディラに戻ったところでもはやノクスに居場所があるとは思えなかった。  ファルクに返事をするように鼻面を近づけると、「楽しみか?」と小さくファルクがまた笑った。  ずっと王のために戦うことだけを、王に忠誠を誓うことだけがすべてだったノクスにとって不思議な時間だった。ファルクはペットのようにノクスを扱うことはなく、仕事のことやアスラルのこと、ディアディラが置かれている状況から、歴史だったり他の国のことだったりと、色々なことを教えてくれた。  獣から人に戻らないノクスをどうして見捨てないのかも、ノクスには不思議だ。人の姿をしていた時にはあれほど自分のことを嫌っているようだったのに。  膝にずっと乗っていたらファルクが重いかなと思い、のそりと膝から降りる。降りた後もじっとファルクの側にくっついていると、時折ファルクの手がノクスに触れてくる。 (この腕輪……)  いつもは右手で触れてくるのだが、左側にノクスがずれたせいかファルクも左手で触れてくる。その腕に、ノクスが右腕につけているあの翡翠の腕輪と同じ腕輪がついている。コルも似た腕輪をたくさんその腕につけているのだが、ファルクの腕輪は片方だけで、ノクスがファルクから受け取ったもう片方と合わせるとまるで一対の絵のように見えた。よく見ようと顔を近づけたノクスの耳のあたりをファルクが軽く触れてくるので、ノクスもつい頭をぐいぐいとファルクの手のひらに押し付ける。  この姿の時、ファルクはとても優しい。もし人の姿に戻ってしまったら、この時間が終わって――コルの許へ行けと冷たくあしらわれるのが怖くもあった。  『オオカミ』に戻ることを諦めつつあった、予期もできなかったある朝のこと。  ノクスは、『オオカミ』の姿へと戻っていた。 *** 「久しぶりだね、ノクス! やーっとファルクから許可が下りたから、今日の仕事を放り投げて駆け付けたよ」  明るく話しかけてくるコルに、ノクスは頷くことで返事をする。オオカミの姿でいた期間が長かったせいか、話すことを忘れてしまったかのように声が出なくなってしまったのだ。相手がアスラル王だと分かっていても、こればかりはどうしようもできない。リズが運んでくる菓子をつまみながら、ノクスはドキドキとしていた。ファルクは朝から忙しいようで、ノクスが寝ているうちに出掛けてしまっている。もしかしたらコルの許に連れ戻されるのではと思ったからだ。 「ファルクには外交を任せているんだけどね。今日は東方からの使者がきていて市井を案内しているから忙しいんだ。ファルクのこと、怖いんじゃないか?」  コルの問いにノクスは大きく首を横に振った。その反応を見てコルは楽し気に笑う。穏やかに微笑むファルクに対して、コルの笑い方は豪快だ。 「それなら良かった。ねえ、ノクス。これからオレと一緒にデートしよう。真面目に仕事しているファルクの様子を、こっそり見に行かないか?」  ちら、とノクスがリズたちに視線を向けてみたものの、リズを始めとしたファルクの家の者たちは微笑ましげにコルとノクスを見ているだけだ。何より仕事中のファルクを見るという誘いはとても魅力的で、ノクスはコクコクと首を縦に振っていた。  お忍びだと張り切っているコルの後ろから護衛がそのままついてきたのが面白くて、ノクスも笑顔になる。金色の髪をした人間はアスラルでも王族や王族の血を引く大貴族くらいなものらしいので、お忍びと言っても目立つことこの上ない。いくら普段よりも着ているものを地味にして、頭から布を被っても、コルがただ者ではないということは雰囲気で丸分かりだろう。  ノクスも外出だからと用意されていた服を着せられ、以前ファルクから譲られた布を頭から被る。ディアディラとは隣国同士なので『オオカミ』の血を持ったオオカミ耳の亜人もいないことはないのだが、ノクスのような毛並みはめずらしいから念のため耳は隠すように言われたのだ。ファルクに与えられた色だという翡翠を基調とした美しい色合いの織物はノクスのお気に入りで、久しぶりにうきうきとした気分で外に出た。 「ほら、あそこが外で会合とかする時によく使うところだよ。今日もあそこを使っているんだ」  馬車の中から、コルも張り切って道案内をしてくれる。アスラルは建築に木を使うことが多い。落ち着いた色彩の街並みが広がっている。ディアディラの街は殺風景なんだなと、ノクスは故国との違いを改めて発見したりした。  その時、ふとコルの腕輪が気になって視線を向けた。コルもすぐに気づいて「ああ、これ?」と笑顔で返す。 「これはオレが生まれた時に作られたんだ。子どもが生まれた時、その子の目の色をあしらった何かを贈り物にする風習がアスラルにはあるんだよ。目は二つあるから、一対になるように作られることが多い。そして、その対になるモノを贈るのは親愛を示すことであったり――求愛の意味があったりする。あ、オレの場合は王サマだから一個じゃ足りないだろうってこの通りだよ。オレの目は一体いくつあるんだろうね」  そう言って笑うコルと、自分が以前ファルクからもらった腕輪を交互に見ながらノクスはふとファルクの左腕を思い出した。ファルクはコルと違い、片側に一つしかつけていない。一対だというのなら、ノクスがファルクから受け取ったこの腕輪は――。  ぴくん、と大きく動いたノクスの白い耳をコルがまだ笑ったまま見ている。だが、その笑いはちょっと意地悪めいてもいる。驚いたようにあわあわとこちらを見てきたノクスの表情を正確に読んで、コルは「正解」とノクスに告げた。 「うちの弟くんはさ、自分のことを軽く見ている傾向が強い。奴は外交がお仕事ってさっきも言ったけど、これも結構無茶をするわけだ。クルガに怪しい動きがあると聞こえてくると、自分の目で見てくるとか言って単身いなくなっちゃってさあ。何とか密偵まがいの仕事を終えて単身帰ってくる途中――君たちに助けられた。あの堅物が自分の対の腕輪だの、自分の紋章入りの布だのをお礼として渡して帰ってきたって言うからさあー、どんな子なんだろうって楽しみにしてたんだ。見たことがある『オオカミ』はみんなムッキムキだったから、てっきりファルクは自分よりガタイがいい男がいいのかと思っていたんだけど」  あの時、ファルクの前に騎士として現れた自分がどんな風に見えていたのか考えると恥ずかしくなり、ノクスが顔を赤くしながら俯くと、馬車の小さな窓辺に肘をつきながコルが苦笑する気配がした。 「許嫁を失っているんだ。――あ、オレの話だけどね」  ぴく、とノクスの耳がまた動くのをコルは見ている。 「事故だった。アスラルは人の国だが、オレたちみたいに『オオカミ』の血が入ることがある。ファルクは特に血が強めに出ているのか、興奮すると『オオカミ』の姿になるんだ。社会性を持つ動物は、自分と違う存在を受け入れずに苛めたりするだろう? まだ小さい頃、嫌がらせされて怒って『オオカミ』になったファルクを見たオレの許嫁がさ、びっくりして階段から足踏み外しちゃって。それからあいつは極力自分の感情をコントロールするようになったし、オレに全部を譲ってきた。ノクスをオレの嫁にするって言った時もあっさり諦めようとしたからさー。こいつはもうダメかな、なんて思っていたんだけど。そんな自己嫌悪の塊みたいなやつに、繊細なオメガを預けられないだろう?」  自分は繊細ではないと思ったが、精神的なショックで獣の姿になってしまったノクスには何も言えないような気がした。 「まあ、でもお兄ちゃんとしてはだ、弟の幸せを願っているわけだよ。ノクスはさ、ファルクのことをどう思う? あいつ仏頂面だけど顔もいいし身長高いし、剣の訓練さぼったことないから着やせして見えるけど、意外とイイ身体しているヨ? 『オオカミ』の血が濃いから、浮気とかもないと思うし。頭がいいのと真面目なのがとりえな感じだけど……待てよ、それしかないな?」 「……う」  コルのひょうきんな言い方が面白くて、ノクスは頑張って返事しようとしたがまだ上手くはできない。  コルは「そうそう」と言いながらわざとらしく手で膝を打った。 「多少怒ったくらいじゃ、あいつはもう『オオカミ』の姿になったりはしないけどね。ファルクが『オオカミ』になる時は――ファルクの本気の、本気だ」  ノクスはファルクが『オオカミ』になったのを一度だけ見ているはずだ。意識が混濁していて幻だと思っていたが、あれが幻ではなかったとしたら。  「お、いい表情しているね。ほら、あそこで大真面目な顔して仕事しているから驚かせてやろう。……ファルクが嫌になったら、オレのところにいつでも戻っておいで。ノクスなら大歓迎だから。……以前ノクスが発情を起こした時は正直、自分のものにしてしまいたいくらいだった」  「ぐ、う」  言葉にもならない、獣同然の唸り声ではあるが、何とか声を出せた。「うんうん、声が出てきたね」とコルも喜んでくれているうちに、ファルクたちがいるところに馬車は止まった。
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