7人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
それは満月の夜だった。昼間は雲が空を覆っていたのに、日が暮れる同時にだんだん藍色の空が見えてきて、太陽の光が見えなくなる頃には月を遮るものはなくなっていた。
そんな夜、僕は珍しく目が冴えていた。いつもなら夜の月9のドラマが始まる時間には瞼が重くなり、エンディングを迎えるとその瞼は閉じられているはずなのだが、その夜はなぜか目が冴えていた。
しかし驚くことではない。僕にはたまに眠れない日がやってくる。たいだい月に一度のペースでその日は訪れ、瞼は重いのに目を閉じてもなかなか夢の世界へは行けないのだ。だが、心配する必要はない。これは眠りづらいというだけで、いずれはぐっすりと眠りにつく。気付けば夢を見ていて、気付けば目を覚ましているのである。
しかし、その夜は違った。どうも胸の辺りがぞわぞわして落ち着かないのである。そして何より瞼が全く重くなかった。夜が深まるのに反して目は冴えて、いつの間にか真っ暗な部屋もはっきりと見えるようにまでなっていた。
これはおかしい。
そう感じても、僕にはこの状況に対処できるような手段がなかった。いつもなら眠りにつくための手段ならいくつか用意している。つまらない本を読んだり、ホットミルクを飲んだり、アイマスクをつけたり……そんな誰もが思いつくような手段である。だいたいはしばらく目を瞑っていれば解決するからどれもあまり試さないのだが、その夜は珍しく思いつくものを全て試した。そして全てが無駄に終わった。新しい手段を考えるたびに頭も冴えてきてしまい、逆に眠りから離れていくばかりだった。
こうなったら、最後の手段を使うしかなかった。――散歩である。夜の空気に触れ、夜風に当たり、体に夜であることを認識させる。考えつく中で最も効果がありそうで、かつ今まで試したことのなかった方法だ。僕は寝間着から適当な服に着替え、家を出た。
どこに行くかは考えていなかった。一時間くらいで適当に帰ろう、歩いて体力が消耗されれば自然と眠気もやってくる。そんな風に思って、気の向くままに歩くことにした。
僕の住む町はそんなに広くない。一日もあれば一周できる。と言っても観光名所もないし、一周するほどの町でもない。どこにでもあるようなものが一通りある、面白味のない町だ。
そんな町をふらふらとして辿り着いたのは、少し大きめな公園だった。知らないところではない。毎年花見をしに来る公園である。春以外でもなんとなく訪れたり、待ち合わせに使ったり、それなりによく行く公園だ。緑があり、そこには虫が棲み、池があり、その中では魚が泳ぎ、公園そのものがこの町の住人に癒しの存在である。
昼間なら住人が散歩していたり、ジョギングをしていたり、小さい子供が遊具で遊んだりしているのだが……やはりこの時間だ、僕以外誰もいない。
僕はふらふらと歩いていき、たまたま見つけたベンチに腰を掛けた。何も持ってこなかったから座ってもやることがなかった。スマートフォンも忘れてきている。この公園には時計はないから、時間が分からない。空を見上げたら月があるが、それだけで時間を判別する術は僕にはない。
「あともう少しで零時じゃのう」
そんな声が隣からした。透き通る声だった。それなのに古めかしいしゃべり方をしている。声としゃべり方が明らかに矛盾しているのに、気持ち悪いとは思わなかった。とても不思議な感覚だった。
声のした方を見てみると、そこには女性がいた。美人という言葉を具現化したような女性で、黒い髪が月の光に照らされて、まさに『美』しい『人』だった。
「……よく分かりますね、時間」
「月の形と角度でだいたいの時間なら分かる」
その人は真ん丸の月を指さした。月の光を浴びる指先までも美しい。
「あの月は満月じゃ。それが南の空の真ん中に来るまで、あとちょっと」
「……分かんないです」
「そうかい」
その人は本当に美しかった。空を見上げる横顔も、月明りに照らされる髪も、吸い込まれるような美しさだ。そして妖しい雰囲気でもあった。こんな人を見るのは初めてだった。じっと見るのが失礼だと分かっていても目を離すことができなかった。
「じろじろ見て、わらわの顔に何かついているのか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」
「まあいいさ。どうせ見とれていたんじゃろう」
「………………」
「図星ってとこかい」
「すみません」
「謝ることじゃないさ。人間はみな、わらわを美しいと言うからのう。もう慣れておる。それに、美しいものに惹かれるのは当たり前のことじゃ」
そう言うと、彼女の目線はまた月に戻った。
まるまるとしたその月は辺りを照らすでもなく、ただそこで輝いている。
「あなたが惹かれているのは、あの月ですか?」
僕は月を眺める横顔に尋ねた。
「そうじゃのう」
そう返す彼女の瞳には僕は映らない。ただじっと夜の闇に照らすその月を眺めている。
「惹かれているというのとは、少し違うかのう」
「そうなんですか」
「わらわは太陽の下には出られんからのう。わらわが光を求めようとしたら、それは月の光になるのじゃ」
「太陽の下に出られない? ......吸血鬼みたいなこと言いますね」
「吸血鬼じゃからのう」
若く美しい女性の姿とは程遠い言葉遣いで彼女は言った。
――吸血鬼。
そのワードに反応するには、少し時間を要した。具体的には、月が薄い雲に隠れてしまうほどの時間が。
「吸血鬼?」
「そうじゃ」
「吸血鬼なんですか?」
「そうじゃと言っておろう。わらわは人間の生き血を吸って生きとる不死の化け物じゃ。もうすでに二百年ほど生きておる。一度くらいは聞いたことあるじゃろう」
普通に生きていれば名前くらいは聞く。しかしそれは昔話や噂での話だ。それが本当に存在するとは誰も思わない。
僕がじっと見ていると、彼女は血のように真っ赤な唇を上下に開き、その隙間から真っ白な歯を見せた。唇の端からは太い針のような歯が覗いている。
「見えんか? わらわには血を吸うための牙がある」
それは昔、テレビか何かで見た吸血鬼そのものだった。よく見ると赤い液体が牙の先端についている。唇のように真っ赤だ。
そこで僕ははっとする。もしや僕は、かなり危険な状況に置かれているのではないか、と。
「やめて下さい! 僕の血は美味しくないですよ!」
「心配するな。さっき二、三人ほどの血を吸ってきた。それに――」
美しき吸血鬼は僕の顔に鼻を近づけて、眉間に皺を寄せた。
「おぬしからは美味い匂いがせん。腹が空いていてもおぬしの血は吸わん」
「……そうですか」
「それに今宵は満月じゃ。こんな美しい月が見ている前で人間の血を吸おうなどという気はおきんよ」
見上げた先の満月は穏やかな光を放っていた。しかし、その美しい月は僕の心を穏やかにしていなかった。どうしてこの化け物がこんなに穏やかな顔をしているのか、全く分からないのだ。
「吸血鬼も月が美しいと思うんですね」
「当たり前じゃ。おぬしから見れば化け物でも、感覚は人間と変わらんよ。美しいものには心惹かれる」
美しいものには心惹かれる――それが僕と同じだとして、彼女はどうしてこんなに穏やかなのだろうとやっぱり疑問に思った。
「満月は美しいのう」
そうつぶやく横顔からは化け物らしさも、人間を襲いそうな殺意も全く感じられない。
それなのに、僕の胸はさっきからずっとぞわぞわしている。彼女が美しいと穏やかな顔をするあの月を見ても、それは収まらない。むしろもっとぞわぞわして、僕が欲しているはずの眠気はどんどん遠ざかっていく。
美しい吸血鬼は美しいと感じられるのに、美しい月を美しいと言うことができない。
「月はおぬしの敵なのか?」
「え?」
不意になされたその質問に、僕は思わず彼女を見た。さっきまで月を眺めていたはずなのに、その瞳の奥に僕が映っている。
「敵じゃないですけど」
「ではどうしてそんな険しい顔をしておる?」
そう言われて、自分の眉間に皺が寄っていることに気付いた。
「本当ですね」
「今宵の月は美しいのじゃから、もっと力を抜け。美しい月が台無しじゃ」
僕は大きく息を吸ってゆっくり吐いた。さっきよりは気持ちが落ち着いてきたが、やはり胸のむずむずは拭いきれない。
「しかし、満月には不思議な力があると言われているからのう。少々気持ちが落ち着かないこともあるじゃろうな」
「不思議な力ですか」
「人間の間でもそんな噂があると耳にしたが、聞いたことはないのか?」
「はい。そういうには疎いもので」
「わらわも詳しい話は知らんがのう。なにやら満月の夜は赤子がよく生まれたり、凶暴な人間が増えるというものらしいが……人間にそんな力が宿るとは思えんのう」
「あくまでも噂ですから。……あなたには宿るんですかね」
「化け物じゃからか? 分からんな。宿っているのかもしれんし、宿っていないのかもしれん。どちらでもよいがのう。わらわという化け物は、月の下でしか生きられん」
吸血鬼は再び月を見上げる。汚い空気で汚された空には星は見えない。真ん丸の月だけが夜空の灯りとなっている。
「美しい満月じゃ」
そう呟く横顔も負けず劣らず美しい。
「今宵の相手をしてくれたお礼じゃ。一つよいことを教えてやろう」
「なんですか?」
「この町には狼男がいるらしいぞ」
「――狼男」
「昼間は人間の姿をしているが、月を見るとその姿を狼に変え、人間を襲うという化け物じゃ」
「……ふうん」
「でもな、この町の狼男は少し変わっておるらしいのじゃ」
「どういうことですか?」
「狼男は確かにいるらしいが、人間を襲ったという話を聞かんのじゃ」
「だったら心配ないじゃないですか」
「さっきから言っておるじゃろう。今宵は満月、特別な力が宿るかもしれん夜じゃ。特に狼男は月の力を借りる化け物……満月によって特別な力を宿しても不思議はない」
満月が不思議な力を宿す。そんなロマンティックなことが起こるなら、こんな眠れない夜もきっと素敵な夜なのだろう。
僕は美しい吸血鬼から目を離して、美しい月へと目線を変えた。
――美しい。
その一言しか浮かばなくなるほど、圧倒的な美をまとった満月だ。
「今、ちょうど零時になったわ。わらわはもう行く」
「どちらに?」
「人間のいるところじゃ。血を吸いにのう」
「さっき腹は膨れているっておっしゃっていませんでしたっけ?」
「そのはずなんじゃが、どうも物足りぬ。満月の影響かのう。理由はどうであれ、飢えは耐えられん。夜が明けるまでにもう二、三人の血をいただくとしよう」
「……………」
「心配するな。おぬしの血は吸わんと言ったじゃろう。それに、わらわが血を吸っても人間は死なん」
「え?」
「わらわに血を吸われた人間は吸血鬼になるのじゃ。わらわは眷属作りと言っておるがのう。だから人間は死なん。吸血鬼になるだけじゃ。……あ、思い出したぞ」
「何を?」
「狼男についてじゃ。あやつも同じじゃった」
「同じ?」
「狼男も人間を己の仲間とすることができるというところがのう。わらわのように血を吸ったりはせんが、狼男に襲われた人間は狼男になると聞いたことがある」
「一緒ですね」
「失礼な。一緒にするな。わらわはあんな野蛮な化け物じゃないじゃろうが」
「…………」
彼女はすっと立ち上がった。二百年も生きた化け物とは思えないほど、すらりとしていた。長い髪が腰まである。月明りに反射して穏やかに輝いている。
「じゃあな、人間。真っ直ぐ家に帰れよ」
「はい」
そう言うとふっと彼女が笑ったような気がしたが、それに応えるより早く、美しき吸血鬼は夜の闇に溶けていった。一瞬だけふわっと風が吹いたと思うと、そこにはもう僕しかいなくなっていた。
「……さて」
そんなことを呟いてから僕も立ち上がる。夜風に乗って獣の匂いが鼻を通り抜けた。
まさか吸血鬼からあんな忠告を受けるなんて、思いも寄らなかった。が、それは僕の血の匂いがたまたま美味くない匂いだったからなのか、それとも『僕』だったからなのか。
「……そんなわけないか」
僕のことをずっと『人間』なんて呼んでいた。あいつは気付いていなかったのだ。二百年も生きている古株の化け物の癖に。
そんなことを思う僕だが、実は今夜の満月を見るまで忘れていた。『僕』が眠れるはずがないにだ、こんな満月の夜に。僕は月明かりを受けて変化する我が身を見てようやく自覚した。
――自分も化け物であることに。
僕は袖をまくり、腕を見た。そこには人間の皮膚などなく、びっしりと黒い獣の毛が生えそろっている。次に口を開け、その隙間から覗いた牙に触れる。吸血鬼の牙のようには鋭くないが、人間を襲うには十分な牙が生えていた――まるで狼のような。
「僕に狼男の話をするなんて……バカな化け物もいたもんだな」
僕は月に向かって吼える。犬よりも強く大きく、何より気高い遠吠えが満月の照らすこの町中に響き渡った。
さて、どこの人間から襲おうか。久しぶりの食事は味のよいものを選びたい。さっきの吸血鬼などはどうだろう。化け物が化け物を食うのも一興かもしれない。なにせあの女は美人だ。美人の肉は総じて美味い。牙から涎が垂れる。
僕は全身が狼と化したのを確認してから、再び月に吼えた。
恐れ慄け、人間ども。
今夜は化け物でも関係なく美味い肉を食いたい気分だ。
月の『不思議な力』で変化した狼は、月明かりの下で化け物の声を響かせると、吸血鬼の消えた闇へ駆けて行ったのであった。
完
最初のコメントを投稿しよう!