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国語の宿題とこれからについて
高校生とは難儀なものです。どう言い表せばいいものやら、なにかとてつもなく息苦しい感じがする。高校が自宅から離れているせいで早起きしなきゃいけなくなったせいでしょうか。授業の内容が難しくなったからでしょうか。なんだかわからないけれど、蛇のように長い因数分解の式やら、教室の中、静かなトーンで発せられる先生の指示やら生徒間のおしゃべりやら、そう言ったものがいちいちわずらわしくて、一つ一つが蜘蛛の糸のように体にまとわりついてくるように感じるのです。コーコーセー。ほら、縄のように見える「―」 でさえチューガクセーと比べて一本多い。どうしようもない、もうほんとうにどうしようもない。
ペダルを漕ぎながら首を大きく横に振ると、自転車がガタッと大きく揺れて落っこちそう。危ない、危ない。何気なく顔を上げると、電柱と競うように植わった街路樹の隙間からオレンジ色に熟した夕日が見えました。いつもよりペダルが軽いのは、駕籠に入れた体操服が汗を吸っていないからでしょうか、それとも部活を休んだからでしょうか。
きっとどちらともなのでしょうね。最近は夕日が沈みきった道を、月を背景に抱きながら帰っていたから、今日はうれしい、めずらしい。
帰ったらたっぷり出された国語の宿題をやろう。走れメロス。先生の朗読を一回聞いたっきりだけれど、自転車がない時代に自らの足で走るのが大変だろうことはよくわかります。私だって毎日二十分かけて自転車通学している身ですからね。
ところで国語、国語と言えば、こんな言葉があったなあ。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。故事成語というんでしたっけ。慣用句でしたっけ。忘れてしまいましたけれども、先生がおっしゃっていたような気がします。
馬に蹴られて死んじまえ。きっと男をどこぞの女性に寝取られでもした女性が、くやし紛れに用いた言葉なのでしょう。こんなふうな、言葉の端々に毒を含んだ、もって回ったような言い回しは、大抵女性がするものと相場が決っていますから。
あれ。でもそう考えてみると、授業で教わりそうな言葉ではありません。こんな一周回っていっそ潔いような言葉、多感なおとしごろの男女には少々刺激が強すぎます。教材として扱うのなら、もっと前向きでふさわしいそうなものがあるでしょう。温故知新とか、臥薪嘗胆とか。まあ、どこで知ったにせよ、世間の毒と教訓とを含んだいいことばです。知識は糧なり、覚えておいてそんはないでしょう。
しかし困ったなあ。せっかくい気分で帰っていたのに、こんなことばを思い出しては、あのことについて考えざるをえません。部活で帰りが遅くなるのは有り難いことではないですし、今日のように早く帰れるのはもちろん嬉しいのですけれど、なんというか、そうできた理由を考えてみると、タイヤの下から長ぁく伸びた影が見えることがまったく有り難くないのです。
ああ、考えたくなかったのに。でも、知らぬ存ぜぬでは通りません。明日も学校があるんですもの、仕方ない。わたしの行動には他意や悪意がなかったことはたしかですけれども、それでもことのきっかけになった事には違いありません。私にも、蝶の鱗粉ほどにせよ、責任はあるのでしょう。
人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。
美香ちゃんが実は馬術師だったなんて話しは聞きませんから、まさか馬を差し向けられることはないでしょうけれども。もしかしたら自転車から蹴り落とされるくらいのことならあるかも知れません。怖いなあ。穏便に済まないものかなあ。わたしはただ、平穏な学校生活がおくれれば、それで十分なのですけれど。ああ本当に、高校生はむずかしい。
なにがしさんとなにがしさんが、惚れただの腫れただのの話しは、校庭の隅でダンゴムシ探しをするのが一番の楽しみだった年代のころからちらほらありました。けれども、わたしはその手のものには疎い方で、そう言う話しを小耳に挟んでも、特別に近づこうという意志もなく、誰のなにに対しても、「ふうん」と相づちをうつ程度に止めていました。そんなふうだから、男女のあれこれについて、何の話が飛び込む隙もなかったはずなのに、不思議です。わたしがもつ恋愛のイメージは、なぜか煮詰めたカレーのようにどろどろしていて、溶けてお玉にへばり付いたじゃがいものように重ったるい。
そんな印象が、高校に上がった程度のことではがれ落ちるはずもなく、わたしは変わらずそう言うものとは縁遠く、対岸で燃え上がる桃色の炎を静かに見つめる人でいたはずでした。
わたしが所属しているバドミントン部には同級生がわたしを含め三人しかいませんから、部活では、いつも三人でいました。乃ち、美香ちゃん、綾羽ちゃん、私。そうせざるをえなかったからとかでなく、気が合ったから一緒にいたのです。クラスも一緒だから、放課後に授業でわからない所を教え合ったり、先生の些細な悪口を言い合ったりできましたし、規則の緩いバドミントンの活動は、部活決定にたいした意志もなく、「まあきらいじゃないからここでいっか」程度の気持ちで入部したわたしにとっては、毎日、結構楽しかった。そう、楽しかった。
さて、うちのクラスには相田大和君という男子がいます。彼はサッカー部員であり、髪の色素が薄い子で、グラウンドでボールを蹴っているとき、光の当たりようによっては、茶色く染髪しているようにも見えました。顔は…、個人的な見解では中の上といたところ。
奇しくもかつての王朝と同じ名前だけれど、この名前は、別に彼をゆくゆくは一国の王にしようという母親の常識外れな大望を内包しているわけではないようで、広くおおらかな心を持った子になって欲しいという、彼の家族の、母性的な、温かい思いからつけられた名前のようでした。2年生に進級した、自己紹介の時に相田君自ら説明していましたから、間違いありません。
彼はその名前のごとく、一学級を統一するべく、学級委員の座についたりはしていなかったけれど、その性格は、彼の家族が願った通りの人物のようでした。
彼と理科の実験グループが一緒だった美香ちゃんはかく申しました。プレパラートのガラスを割っちゃったとき、指をけがしてないか心配してくれた、優しい、と。彼と一緒の保健委員である綾羽ちゃんはかく申しました。身体測定に使った体重計を返しに行くとき、重いだろうからって代わりに持ってくれた、気が利く、と。
つまりは、そういうことのよう。気がついたときには、彼女たちはわたしと二人でいるときにしばしば相田君の名前を出すようになりました。曰く大和君が今度部活の大会に行くらしいだの、授業の発展問題を難なく解いていただの。二人とも相田君に好意を抱いていることは明白で、しかし、美香ちゃんも綾羽ちゃんもお互いに何か察するところがあったのか、三人でいるときには相田君の名前など一切出口に出そうとはしませんでした。
そんな日々を半年ほど経て、一昨日。わたしは学校を休みました。何のことはありません。季節外れの、ただの風邪。多少熱が出て苦しかったけれど、その程度で済みました。
休んだぶんのノートはどうしよう。まあ部活の時に写させてもらえばいいでしょう。
夢の世界へ入る瞬間、熱に浮かされた頭でそんな事を考えて、昨日。普段の走り込みのたまものか、わたしは病床を一日で抜け出し、部活の時に二人に頼みました。
昨日のノートを見せてください。
おお、いいよぉー。と、スクールバックに手を突っ込みながら綾羽ちゃん。
そういえば、プリント預かってたなぁー。と、クリアファイルを取り出しながら美香ちゃん。
そのときです。美香ちゃんの空色のクリアファイルから、何か四角い物が落ちました。それは封筒で、ハートマークのシールがついた、いやらしくない程度に明るいピンクの、しかし一目見で中身の察しがつくような___、封筒右下に小さく、相田大和さま。
___美香ちゃん、何か落ちたよ。
物体が地面に着地して、コンマ一秒。いや、もしかしたらそれより早く。宛名を手で覆うように拾い上げ、おそらく隣で固まっているであろうもう一人の目から隠すように封筒を表がえし、二度とそこから出るなという風に押し込めるだけ深く、美香ちゃんのクリアファイルに差し戻しました。
綾羽ちゃんの顔が見られませんでした。美香ちゃんの顔だってろくに見ていません。綾羽ちゃんの方を笑顔で振り返り、「なにかみたかい?」なんて聞く勇気、わたしにはありませんでした。綾羽ちゃんは何も見ていないのかも知れないし、見たかもしれない。でも、もし見たと答えられたら?なんて返せばいいのでしょう。あれはピンクのはんぺんでしたとでも?無理。絶対に無理。だから私は、さあ、いこっかあ。と、明るい声をあげ、まるで盲目な案山子のように先頭に立って歩き始めました。後ろなんて、見られませんでした。
そして、今日。
いつも通りに振る舞うつもりでした。美香ちゃんの笑顔が明るすぎる気がするのは気のせいで、綾羽ちゃんと視線が合わないような気がするのはほんの偶然。そう思っていれば、昨日の事なんて無かったも同然。だってわたしが休んだ日のノートはまだ埋まってないんですもの。やりなおし、やりなおし。もう一度、「見せて」と頼んで、美香ちゃんが今度こそ、件のはんぺんでなく、わたしにと預かったというプリントを取り出せばそれで万事解決。
リセット完了。
でも、そんな期待がまかり通るほど、現実は甘くないですね。
放課後、部活をするべく体育館を目指して3人で歩いている途中、綾羽ちゃんが呟くようにいいました。
相田に告白した。オーケーって言ってくれたよ。
二人の間を歩いていたわたし、わたしより少し背が高い綾羽ちゃんを見上げると、彼女はさして嬉しくもなさそうな表情で、頑なに前だけを見ていました。
オーケーッテイッテクレタヨ?それは、それはつまり、綾羽ちゃんと相田が付き合うということ。では、美香ちゃんの手紙は…。
…帰る。
反対側に目をやると、彼女はすでに踵を返し、見えたのは背中だけ。まって、なんて言えず、縋るように綾羽ちゃんをみると、彼女も美香ちゃんとは別方向に早足で歩いてゆくよころでした。わたしはどちらへもゆけず、立ち止まり、メトロノームのように二人の背中をおろおろと見送るしかありませんでした。
緩い部活万歳。こうして2年生一同が一挙に部活に行かなくも、先生は何も言わないでしょう。
でも、どうしよう、どうすればいい?一人で帰るわたしに残されたのは、授業を休んだせいで、解き方も、そもそも答えがあるのかすらわからない数学のプリントと、メロスの宿題。
隠し事は、どうやっても外に漏れるものです。そこのところ、綾羽ちゃんと相田君がどう付き合っていくのか、わたしにはしるよしもありませんけれども、相田はけっこう人気があるようだから、早ければ明日にでも薄煙程度の噂はささやかれている事でしょう。
しかし、綾羽ちゃんは美香ちゃんの気持ちを考えなかったのでしょうか。それとも、友人の気持ちを考えられなくなるくらいに彼の事が大切だった?そもそもわたしが「ノート見せて」 なんていわなければこんなことにはなっていなかったのでは?
わからない。メロスに政治がわからないように、わたしには彼ら彼女らがさっぱりわからりません。
わたしはどうなってほしいんでしょう。美香ちゃんと綾羽ちゃんがまたぎくしゃくしないで話せるのなら、馬に蹴られるくらいなんでもないように思えてきました。
ああ、本当に難儀なものです。自分の気持ちも、もはやよくわからない。メロスがうらやましいなあ。セリヌンティウスのところだけ目指して走ればいいんだもの。
とかく考える内に、家に着きましたから、一旦考えるのはよしましょうか。混乱した頭ではろくな答えは出せません。それに明日が近づくにつれて、どうせ考えざるを得なくなるのですから。
宿題、いっぱい出されてたなぁ。場面における登場人物の気持ち記述せよ、だったっけ。ご飯を食べて、宿題をして、お風呂に入って。諸々のことを考えるのは、それからでいいでしょう。思えばずっと、爆弾の火種を抱えて過ごしているようなものでした。あらためて考えると、今まで燃え移らなかったのが奇跡のようなものです。
どうなるのかなぁ、どうなるんだろう。既に収集がつかないほど、大きな炎が燃え上がっているような気がする。ともかく今は、日はまだ沈んでいないと、ただ信じておくことにします。走れる道は、まだあるはずでから。
ただいまおかあさん、おなかすいたぁ。
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