未来が変わる消しゴム

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未来が変わる消しゴム

 俺の人生は消しゴム以下だ。  普段はいてもいなくても変わらないような扱いをしておいて、そいつらにとって都合の悪いことが起きた時はうわべを取り繕った顔をして、尻拭い役を押しつけてくる。  間違いを消すための存在が消しゴムなら、俺は他人にとっての厄介ものを消すための存在。消しゴムよりたちが悪い。  俺の人生、ずっとこんな調子なんだろうか。学生から社会人へとステージが変わっても、俺の本質が変わらなければ同じなんだろうか。 「だったら嫌だと断ってみてください」  聞き覚えのない声がいきなり割り込んできて、酒を喉に詰まらせかけた。  反射的にカウンター越しに立つオヤジを見やったが、距離的に違う。 「ああ、すみません。ずっと僕に愚痴をこぼしていたのかと思いまして」  隣に顔を向けて、今度は息をのんだ。  声が低音だったから男だと思う。  判断に迷ってしまったのは、居酒屋に不釣り合いなほど、中性的で綺麗な顔立ちをしていたからだった。全身を黒で固めているさまも、妙に似合っている。 「……お前、芸能人?」  思わずこぼれた問いに、男は笑ったまま首を振った。 「あなた風にたとえるなら……嫌なものを消しにきた消しゴム、とでも言えばよろしいでしょうか?」  理解できないのは酔いが回っているせいではないと思う。それとも、不躾な質問をしてしまったから腹を立てているんだろうか。 「僕の言葉を信じて、勇気を出して嫌だと断ってみてください」  男はまた繰り返す。美形の曇りない笑顔には妙な説得力があるが、それができるならこんなに苦労していない。  どうせ赤の他人だ、と酒の勢いに任せて口を開く。 「昔からこうなんだよ。最終的に『お前はそれくらいしか使い道がないから文句言うな』って怒られる。何回抵抗しても……変わらない」  抵抗は焼け石に水どころか扱いが一層ひどくなるだけで、打ち勝てる力も助けてくれる友人もいなかった。 「大丈夫ですよ」  なぜ、という当然の疑問をかき消す力を秘めたような、不思議な感覚を呼ぶ声だった。 「嫌なものを消しに来たと言ったでしょう? 絶対に、あなたの描いている結果にはなりません」  そこまで言い切れる根拠はなんなのか、問いかけても男はただ笑みを刻むだけ。 「僕、しばらくこの店に通っていますから、結果が出たらぜひ教えてください」 「こんばんは。お久しぶりですね」  忘れられなかった声を突然かけられて、気分が一瞬で高揚した。振り返った俺の顔はきっと、呆れるほど明るい。 「やっぱあんたか! 二ヶ月ぶりくらいか? また会えたらって思ってたんだぜ」  人の行き交う道に立つ男の周りだけが、切り取られたように見える。  彼は、神の使いか何かかもしれないと思っていた。結果の報告を最後にぱったりと会えなくなれば、そう信じてしまうのも無理はなかった。 「ありがとうございます。ですが……僕は、再会はしたくありませんでしたよ」  近寄ろうとした俺の足は、不具合をおこした機械のように止まる。 「確認ですが、あの時の忠告はもちろん守ってくださっていますよね?」  氷を飲み込んだような感覚が走った。  よくよく見れば、相変わらずの笑顔にはどこか違和感がある。妙につくりものめいていて、人間味を感じない。 『くれぐれも、復讐などには走らないように。二度と今の位置には戻れなくなります』  よろよろと後退するが、自然と距離を詰められてしまった。頭の中を乱雑な文字の羅列が流れては消えていく。 「ま、守ってる。俺は、俺はあいつらとはちが」 「忠告が無とならないよう、お気をつけください」  手に入れた今の時間が、消されないように。  そのまますれ違う男を恐る恐る振り返ると、あったはずの黒い影は闇に解けてなくなっていた。
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